青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

 歴史をつまらなくさせる理由、それは我々の「今」と深く関わるように歴史の授業が展開されていないことにあると思います。
 しかしながら、社会科という科目に歴史が位置づけられている以上、先に挙げた「封建制」だとか「国民国家」だとか「権力」だとか、そういう我々が生きている「社会」の権力要素や経済システム、政治システムなどは絶対に学ばなくてはいけないことは言うまでもありません。
 でも、その一方で「個人」を見るという視点も忘れてはいけない視点だと思います。自分的に言えばそれをやっているのが歴教協の歴史教育だと思います。あそこの社会科はかつては「民衆」という権力要素を多分受ける人たちの歴史を多く取り上げていました。しかしそれはいつしか社会が社会主義共産主義へと移行するだろうというマルクス主義を背景にしていたという問題点があり、それが破綻した現在ではそうした思想が薄れてはいますが、個人の思想を歴史的事象を通じて「思い」や「願い」として伝えることはある側面においては有効な教育方法だと思います。


 今おいらの知り合いで歴史学において「個人」の思想に踏み込むことは可能か、っていうことを真剣に追求している人がいます。実証主義歴史学において、そうした個人の思想に踏み込んだ研究をすることは極めて困難であるし、半ば放棄されている傾向があります。しかし、個人の思想、社会の中に民衆が、個人が、どう生きたかという側面が見えてこないからこそ、歴史は難しく無味乾燥なものだととらえられ、歴史学を学んでいる自分たちですら全く魅力を感じず、それどころか歴史学を「無駄な学問」ととらえるのです。
 歴史を学ぶ事は、社会システムを学ぶと同時に、先人の人生、先人の「思い」と「願い」を学ぶことでもあると自分は思います。そうであるならば、歴史を知識として得ることは少しだけ意味を持ってくるような気がするのです。もちろん、某先生が言うとおり、こればかりを毎回やることには多少の問題点があると思います。しかし一方で、金八先生のような生徒に問題行動が見られるような学校ではこういう社会科も多少は効果を持ってくるのです。もちろん、何を「思い」、何を「願う」のかの質は大きく問われるでしょうけど。


 以上、「一所懸命」という言葉から歴史学的なことを私論をつらつら述べてみました。