今、ふたたびの五体不満足
いつか書こうと思っていたのに書けなかったので、今書きます。
採用試験の時に、何か話のネタになるもの(教育的意義のある本)はないかな、と実家でごそごそしていたら、乙武洋匡の五体不満足が出てきました。
本は2000年に買ったらしい形跡があったので、中学生の時に買った本ですね。
あの時は、「テストでいい点を取ることが一番大事なのに、なぜ本を読まなきゃいけなんだ。本にはテストに出ることなんてひとつも書いてやしないじゃないか」というスタンスだったので、本を読むのが大嫌いで、それこそこの本もブームだったから買ったわけですが。
今読むと、なかなか教育的価値の高い本じゃないか、と思いました。
乙武さんが「自分は障害者だ」と感じたのは、実は高校を卒業したあたり、らしいです。それまでは何も思わず過ごしていた。
そこには子どもたちの素晴らしさと、教師の素晴らしさがありました。
まず、子どもは「気を遣おう」というスタンスは持たない。でも、運動をするときでもきちんと特別な(平等に楽しめるような)ルールを作る。
次に、教師はとにかく「自分で」やらせようとする。見守ったり、本当に必要な時は介入するけど、基本は当人に任せる。
そして、親も何より本人もすごいっすね。普通、五体不満足なら、嫌気がさしちゃうはずなのに、そんな風にならないわけだから。
この本が出て10年経ちます。その間、ノーマライゼーションや、特別支援教育など、ハンデのある人を支えようとする動きが活発になりました。そして、人権面への配慮から、「障害者」は「障がい者」と表わすなどのこともなされています。
ま、「障がい者」と表わすことについて、「別にどっちでもいいじゃないか」と自分は思いますが。
でも、社会のデザインは変わったでしょうか。
確かにエレベーターはたくさんついたし、障害者用のトイレもあるし、段差もなくなってはいる。
でも、「つけて満足」感はないか。
それが本当にハンデのある人の「自立」を支えているのか。
例えばエレベーターは意外と遠いところにあったりする。障害者用のトイレのやつも、手前じゃなくて奥にある。
「自立」するためには、「自立」のための訓練が必要である。何もせずに自立はできない。
でも、手取り足とり訓練する、一から十まで支えるのとも違う。
だからこそ難しい。
五体不満足にはそれを何とかするためのヒントがあるように自分は感じました。
そして、それは個人の心がけ、道徳心の問題だけに帰着させるのではなく、描くべき社会のデザインにまで踏み込んでいくべきだと思う。でもそれは、決して「障害を感じさせない社会」「エレベーターがあり、段差のない社会」などという安易な理想論で片付けられないものであることを自覚させるべきである。
ちなみに最近彼を見ないと思いませんか。実は今、彼は杉並区で小学校の先生をしています。「普通」の先生になっているそうです(ま、一応今年で任期は切れるみたいですが)。
ちなみに、面接の日、車で送ってもらいながら、面接のことを考えるのではなく、ついついがっつりこの本を読んでいたことは余談です。
そして、二日目の論作文の時は、車中、がっつりワンセグでシンケンジャーを見ていたのは更なる余談です。