青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

思いつくまま雑記

 情報というものに真実はありません。あるのは、「自分なりの真実」。これは僕が知っている範囲で書いた、僕が生活している範囲で書いた情報であることをご容赦ください。
 最近、日本のエネルギー問題についてまことしやかにいろいろ叫ばれています。
 きっかけは、今回の震災により福島の原子力発電所放射能漏れが発覚したこと。
 うろ覚えだが、日本の電気のおよそ3割は原子力発電によってまかなわれている。東京電力管内でもおよそ25%の電力が原子力発電だ。
 ただし、東京電力管内の電気はどこで作られているかというと、東京ではほとんど作られていない。福島、柏崎などの地方で作られているものを東京に送っているという形をとっている。 
 例えば、山手線に使われる電力のおよそ3割は柏崎の原子力発電所から送られている。それだけに限らず、新潟で電気が作られなくなったら、福島で電気が作られなくなったら、それだけで首都圏の機能はまひしてしまうことだろう。



 だからこそ今、首都圏に多大な影響が及んでいる。新潟・中越地震の際にも柏崎の原子力発電所の問題が少し出たが、停電になることにも大々的なニュースになることも少なかったように思う。



 ということは、東京電力の電気は福島だよりだったんだな・・・?




 閑話休題



 原子力発電は、火力発電による化石燃料の大量消費をすることなく、大量の電気を作ることが可能である点から、近年注目を集めている。また、使用燃料は再処理することでリサイクルができるということも大きな魅力である。
 自分は原燃PRセンター的なところには行ったことはないが、原子力関係のテレビ番組は、上に挙げた原子力発電のいい部分をしきりにピックアップする。
 ただ、今回のような放射能漏れやメルトダウンによる水蒸気爆発で、人的被害が出る可能性は、デメリットとしてある。




 かつて自分が見たことのあるPR番組では、放射能が漏れることのないように、何重にもわたって壁を作っているから大丈夫、的なことを言っていた。
 今日の朝日新聞の投書に、原子力発電について子どもが施設のお姉さんに「これが壊れたらどうなるの?」「これも壊れたらどうなるの?」「これも壊れたらどうなるの?」と聞くと、そのお姉さんは遂に「絶対に壊れません!」と逆ギレした的なものが載っていた。





 でも、壊れないにせよ、人的被害の可能性にまで及んでいるわけです。





 そうすると、これから問題になるのは、原子力発電をこれから続けていくか否か、という問題です。
 かつてアメリカではスリーマイルの事件以降、原子力発電所を作ることに強い抵抗感があり、以降建設に消極的だったこと、近年、スリーマイルの問題が解決されつつあり、原子力発電を推進していこう、とする最中に起きたこの問題。





 原子力発電をやめることによって発生するデメリットは、電力供給量が少なくなってしまうという問題があります。
 例えば、原発を絶対に作らない、原発を廃止しようとしている国にドイツがあります。しかし、その結果電力供給量が少なくなり、隣国で、原子力発電を推進するフランスの電気を購入している、という皮肉が起きていることが、高等学校の地理Bの教科書に書かれています。
 



 これは日本でも例外ではなく、このまま原子力発電が復旧しなければ(というか、復旧しないだろうが)、今日の新聞では夏場にエアコンなどを使用することにより、2割〜3割の電気が不足することが見込まれているそうです。
 それだけ日本でも「原子力頼り」だったことが分かります。




 どうやら最近のメディアでは、「放射能は怖くない」「人体に影響を及ぼす量ではない」、だから大丈夫、という論調が強いんだとか(ちゃんと見ていないのでこの口調ですが)。
 でも、その背後にはこうした電力の圧倒的な供給不足が見込まれ、現在の生活水準が維持できなくなる、だから、原子力発電をしないといけない、という思惑が隠れているように思います。
 ちなみに僕は、本音をいうと便利な生活を望むタイプなので、原子力発電があってもいいのでは?と思うタイプです。




 が、今回の原子力安全神話の崩壊は、我々の生活をエネルギーなしで生活せよ、と言っているような気がします。
 まだ、本を買っただけで読んではいませんが、江戸時代は今とは違い、エネルギーや資源というのが、ほとんどありません。だから、エネルギー0の状態から、人々が「技術」を使って、「知恵」を使って、便利な生活を勝ち取ろうとした姿がうかがえます。
 よく「持続可能な開発」やESDの教育をする際、江戸時代はそんな風に評価されるように思います。
 ということは、我々は、エネルギーの供給減少という現実に直面したがゆえに、江戸時代という歴史から学ぶことが多くなった、と言えるような気がします。





 よく歴史は「発展史観」で語られていました。近代が一番いい時代、社会主義共産主義国家が崩壊して以降、資本主義こそが一番いい考え方だ、という風潮になりつつあったような気がします。




 でも、今こそ「逆進史観」という観点からも見直す必要があるように思います。歴史から学ぶ、そんな必要に迫られているように思います。江戸時代を学ぶ意味は、「近代」とは性質を異にする時代として、見ていく必要があるように思います。それは、今に生きる我々に大きな影響を与える気がします。




 あるツイッターに書かれていましたが、「3.11」が日本人にあたえたものは、「科学」や「便利さ」を追及することの限界性、文明が進歩することが必ずしもよいことではないこと、なのではないかとされています。
 自分も「3.11」の報道をみると、「日本人らしさ」とか「気持ち」とか、そういうものに傾いているような気がしますね。個人的には、教育者としてみれば、これほど格好の材料はないので、人間形成的には大きく賛同しますが、社会科の立場から見れば、やっぱり「全体主義」への危険性は常に伴っているような気がしますね。そこだけは気をつけないといけない気がします。




 話が長くなりました。
 僕は、自分のことを「社会科」を教えている教師だと思っています。僕は、高等学校では地理歴史科の教師として採用されましたが、「地理教師」「歴史教師」という(僕にとって)無意味なアイデンティティを持っていません。
 セクションで区切ることは、学問にとっては有効ですが、目の前にいる生徒にとっては有効ではありません。僕はそう思っています。
 だからこそ、教科上が「地理」や「日本史」であったとしても、常に「社会認識教育」として教えることは来年度も忘れないで教えていきたいなと思っています。