青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

5月に買った本

 

  ケーキの切れない非行少年たちの第2弾。日本では「頑張れば報われる」、「頑張れば応援する」ということがよく言われるけど、世の中には「どうしても頑張れない人たち」が一定数いるということ、頑張り方を知らない人たちがいるということを紹介している。

 特に第4章のやる気を奪う言葉と間違った方法は、昨今の教育現場にも、子育てにも通じる言葉かけの方法が載っています。例えば「もっと勉強しなさい」、「でもな・・・」と本人の言葉をさえぎる、「もっとできるはずだ」「だから言った通りでしょ」「どうしていつもあなたは・・・」など、頑張り方を学んでいない人にとって、自分の経験からの過度な言葉かけは逆効果になることが指摘されている。

 この本を読んでいると、頑張り方を知らない人に対して、自尊心を育て、本人が社会で生活できるようになるって、本当に難しいな、と感じます。でも、自分の職業柄、そうしたことにも向き合っていかないといけないな、と改めて感じます。

4月になりました

 今年度異動となりまして、再び高等学校へ戻っております。

 そして、6年ぶりの担任、高校の担任となると前の前の学校以来なのですが、ものすごく楽しくやれております。

 そして、土曜授業が隔週、しかも部活は副顧問なので、土日が連休とかマジで神っています。ありがたい。

 今までのご褒美だと思って、とはいえ油断せずに授業づくりをしていきたいと思います。

 

[think] 「文脈に寄り添う」ということ

 先日、とある仕事でとある有名なプロデューサーにインタビューする機会を得ました。個人的にはその人のファンだったので、充実したインタビューをすることができました。

 その時に話になったのが、プロデュースをするときにこだわっていることは何ですか、という質問に対する答え。

 その時に言っていたキーワードが、「その人の文脈に寄り添う」ということでした。

 特に「文脈」という言葉は、教育においても重要で、やっぱり人を育てる仕事で大成している人って、「文脈」という言葉を使うんだなあ、と感じました。

 近年、教育学研究においても「社会文化的アプローチ」とか、「社会的文脈によりそった教育」ということがクローズアップされています。これは、本当に簡単な言葉でいってしまえば、教えるべき内容が決まっていても、そこの地域、そこに通っている子どもによって、その内容がうまくいくか/いかないか、は全く異なるということ。いわゆる「しんどい」学校と「しんどくない」学校では、同じことを教えるにしても、アプローチや目標を変えていかなければならないということです。

 これは特に、親が外国にルーツを持っているなど、文化経験が共有されない子どもが、日本という教育システムの中で学ぶ時、例えば言語の壁などによって、可視化されてくる現象だと思います。

 これまでの教育学は、どちらかといえば「教えるべき普遍的な目標・内容」があり、それを現場でいかに反映させるかという演繹的アプローチをとってきたかと思いますが、近年では「教育現象の中からキーワードを拾い上げ、暫定的な普遍化を目指す」帰納法的アプローチが主流となりつつあります。(詳細は、「協働・対話による社会科授業の創造」を参照)

 

 そういう意味で、教育においてはある意味「当たり前」に行っている、学校の実態、子どもの実態に合わせた教育というのが、人間育成においても同じなんだな、と思い、共感していました。

 でも、「文脈によりそう」って、言うのは簡単だけど、実践するのはすごく難しい。特に「ブラック」と揶揄され、人手不足になっている現場だとなおさら難しいと思います。

 それでもやはり、「子どもの話を聞いて、その子が何をしたいのかをていねいに理解する」ことが大切で、そのプロデューサーもこれをプロデュースする時にこだわっているとのことでした。その上で、「何ができるのか」を考え、プロデュースするのだそうです。やっぱすごいなあ、と思いました。

 

 後、そのプロデューサーが言っていたのは、

 

 「学校って、好きなことを我慢する場所だよね」

 

 と。

 

 「だから、もっと好きなことを言葉にしていいんだよ。そういうことを意識してます」

 

 と。

 

 確かに、学校ってクラスで、とか、みんなで行動するから、どうしても「我慢」を強いる場所だよなあ、と。

 あとは、「言葉を正直にぶつけること」の大切さ、も言っていましたね。信念、というものに近いんじゃないかな、と思います。

 

 確かに信念があって、その信念(思い)に言葉がのると、子どもに伝わるよなあ、と。

 

 

 やはり一流の人は違うなあ、と感じました。

 

 

 ちなみにその後、教育の話にもなり、将来的には学校を作りたいんだそうです。何かインタビューしていてお手伝いできたら、と思ってしまいました。

3月に買った本②

 

  バートンとレヴィスティックの「Doing History」の抄訳本。すでに「コモングッドのための歴史教育」が翻訳されていますが、その趣旨がこの本にも生かされています。

 バートンとレヴィスティックのポイントは、「何のために歴史を学ぶのか」(aim talk)の重要性である。その答えは、細かな知識の羅列ではなく、歴史学的手法を学ぶことでもなく、「多元的民主主義の実現のために」歴史を学ぶことが重要であると指摘します。

 その上で、過去に対しては「アイデンティティ」「価値判断」「分析探究」「情報発信」という過去に対する4つのスタンス(心構え)にがあることも述べます。

 さらにこの本では、「三つのキーとなる問い」(人間と環境、他の人間との相互作用、人間と考え)、「七つのキーとなるテーマ」(人口、経済、権力関係の変化、富の偏在、自己表現、科学技術と環境、精神生活と道徳)が示されており、この辺りも参考になるのではないか、と思います。

 具体的な実践部分にフィーチャーした抄訳本であるということを理解しつつも、それでも「Doing History」として、歴史は「何のために学ぶのか」を、教える側も、生徒自身も、常に考えていけるような、そんな授業にしたいところです。

 

 

 

 

アクティブ・ラーニング実践集 地理

アクティブ・ラーニング実践集 地理

  • 発売日: 2021/03/30
  • メディア: 単行本
 

  これから読みます。

 

アクティブ・ラーニング実践集 近代・現代

アクティブ・ラーニング実践集 近代・現代

  • 発売日: 2021/03/30
  • メディア: 単行本
 

  「歴史総合」がどんなものなのか、は教科書が出ていないのではっきりしていません。しかし、指導要領は示されているので、「きっとこんなかな?」という形で、具体的実践例が示されているのが、上の本です。

 基本的には、アクティブ・ラーニングが推奨されていた頃に行われていた、KP法や「学び合い」が母体となってはいますが、今回は、「単元を貫く問い」など、具体的な授業風景や、実際の生徒の「答え」(個人的には「回答」だと思うけど)も示されており、授業がイメージしやすくなっています。

 ここで注目すべきポイントは、実践の一部が中等教育学校の前期課程、つまり中学生の歴史的分野を利用して授業の具体案を提示していることです。

 これは、現状三度やる歴史の授業の中で、実は、中学校の歴史的分野が、内容的にも、カリキュラム的にも、歴史総合とかぶる部分が多いことを間接的に示唆しています。

 そうなってくると、歴史総合でやる内容は、ぶっちゃけ中学校でもできちゃうわけで、だからこそ、歴史的分野と歴史総合は何が違うのか、をはっきりと選別する必要があると思います。

 ただし、教える内容・事実の量では絶対にあってはいけない。

 個人的に歴史総合は、「世界史の視点から」構成されるべきであると思うし、そうでなければ、ぶっちゃけ中学の歴史と変わらないじゃん、ということになります。

 でも自分は、世界史は専門ではないので、どうしてもその視点で授業をすることはできない。そうした日本史マターの人が、どうやって世界史的視野でやっていくことができるのか、その辺りを1年かけて学んでいきたいと思います。

 

 さしあたって現在、社会科の費用で買った下の漫画を読みながら、勉強しています。この本を読むと、やっぱり日本史の描き方が全然違うことが分かります。

 (特に、第二次世界大戦が、20世紀的な超国家構想VS19世紀的な植民地拡張主義の国同士の対立なんだ、というのは、世界史を見ないと分からないことですよね。マンガでその辺りがある程度、理解できるようになっています。また、19世紀後半に近代化していった日本を、中国や東南アジアといった国々がどうとらえていたか、その辺りも世界史から見ると、日本の見方がガラッと変わりますよね)

 

角川まんが学習シリーズ 世界の歴史 全20巻定番セット
 

 

3月に買った本

 

地理授業づくり入門: 中学校社会科での実践を基に

地理授業づくり入門: 中学校社会科での実践を基に

 

 

 

 

 今月の研究会で、地理教育の実践報告をしました。その時に活用した2冊の本です。荒井先生の本は、4月から始まる学習指導要領の骨子と、それをふまえた先生自身の実践例がふんだんに載せられているのがおススメです。

 吉水先生の本は、中学の先生の多くが地理に苦手意識をもっているところから始まり、岩田一彦先生の「見方・考え方」に基づいた授業デザインについて述べられています。

 古典的かもしれませんが、吉水先生のいう地理授業を意識して実践していくことが、地理を「面白く」「楽しく」させ、「わかる」授業へとしていくのだと思っています。

 個人的に自分の地理授業は、森分先生や岩田先生のいう、科学的探求主義や、社会の見方・考え方を育成するための地理授業、ということを常に意識して作っています。それが今年の生徒には伝わったらしく、半分以上の生徒が、「地理=暗記科目」という学習観を克服した、とアンケートで答えてくれました。

 

 

 個人的には、地理だから地理の勉強をしなきゃ、と仰々しくとらえず、自分の専門(歴史とか政治、経済)から地理へアプローチすることが地理を面白くする秘訣だと思っています。(地理学のジャンルに、歴史地理学や経済地理学とありますから)

 そんなことを意識して、報告させていただきました。

2月に買った本②

 

  実際の授業を考える上での発問スキルが丁寧に載っています。おすすめ

 

 

高校社会「地理総合」の授業を創る

高校社会「地理総合」の授業を創る

  • 作者:井田 仁康
  • 発売日: 2021/01/28
  • メディア: 単行本
 

  こっちは参考にしつつ、個人的には社会科地理の立場なので、ここにプラスアルファしたい。

 

  磯田さんのエピソードが特におすすめ。あとは、半藤さんから見る、それぞれの人物評がおすすめ。

 

 

  これはすごい。20世紀の民主主義の歴史が整理されている。社会科教育を考える上では丁寧に読まないと。

 

 

  教材研究のために購入。

 

 

  こちらも教材研究のために。江戸時代から現在までのアイヌの歴史が丁寧に描かれている。特に、アイヌの「カムイ(神)」の発想で、和人とも共存していこうという姿勢が見られている所がとてもよく、近代の日本人たちが移住していく過程で、そうした共存という親切につけこんで領域拡張しているんだな、っていうのが感じられる。

 アイヌからしてみれば、文化変容であり、日本人からしてみれば同化である。アイヌは、調べれば調べるほど奥が深い。かつ、実は民族の問題を内包している。そんなことを感じながら授業づくりをしました。

2月に買った本

 

明治十四年の政変 (インターナショナル新書)

明治十四年の政変 (インターナショナル新書)

  • 作者:久保田 哲
  • 発売日: 2021/02/05
  • メディア: 新書
 

  まだ眺め読みしかしてないけど、大隈と伊藤だけじゃなく、福沢諭吉黒田清隆井上毅などの登場人物もふまえながら丁寧に描かれている。改めて、明治十四年の政変が大久保・木戸・西郷ら亡き後の、維新第二世代たちの政争だったということがよく分かる。

いろいろと更新していきます。

社会系教科教育学会で読んだ論考①

 歴史的エンパシーの実証的研究 (石井天真)

 歴史的エンパシーとは、過去を異文化ととらえ、異質な他者としての過去の人々の思考や感情を理解を目指す学習や資質能力のことである。この研究では、生徒があらかじめ持っている歴史事象に関する既有知識が歴史的エンパシーに与える影響と、こうした授業を生徒はどのように意味づけるのか、について実践記録を基に考察している。

 授業としては戦国時代を題材に、生徒が知っている人物(信長、秀吉、ザビエル)と、知らない人物(武田勝頼小早川秀秋)を取り上げ、現代の価値観や感覚からすれば一見不思議な行為の背景にある、歴史的文脈や社会状況に気づかせるような授業となっている。

 この授業後の記録から、生徒のエンパシーを働かせる際の視点として、素朴な想像、知識の活用、資料の活用、イメージのあてはめ、自己のあてはめ、自己反省、他者の意見の7つの要素が抽出された。特に、初期の段階では既有知識の有無によるイメージのあてはめが強く影響していることを指摘している。(具体的には、「戦いに勝った(負けた)」という事実から「リーダーシップがある(ない)」と判断するなど)

 しかし、こうしたイメージも、資料を提示して授業を進めていく中で、文脈性を意識した記述へと変化すること、そして、その際には授業で提示されている資料が大きな影響を与えていることを指摘している。

 そして、こうした授業を生徒はどう意味づけたのか。「なぜ、歴史を学ぶのか?」のアンケートに対し、定番としては「教訓」の項目が多い(このアンケートでも1番だった)のだが、この実践を受けた生徒は、「人間理解」という項目が多い(2番目に多い)ことが注目される。石井氏が意味付けとして指摘していることは以下の三点に要約される。

 1.「他者理解」が歴史を学ぶ理由としているのは、元からではなく、この授業を通して新たに意味づけられた項目であること(=授業外で獲得しにくいものであること)

 2.1番目に多かった「教訓」については、生徒が学習していないにも関わらず「戦争」というキーワードをあげていることから、授業外ですでに獲得されている意味づけの1つであること

 3.歴史を学ぶ「意味付け」は近現代の方に多く感じる一方、歴史の「面白さ」については、古代の方に多く感じていること。

 

 つまり、歴史的エンパシーを働かせるような授業場面において、生徒は既有知識の有無をふまえて自分なりに「イメージ」を働かせながら歴史事象を考えていること、資料を通してそれに揺さぶりをかける歴史学習を行うことで、生徒は「他者理解の機会」として歴史学習を意味づけることを明らかにしている。

 

 

(勝手に講評)

 この論考は、エンパシーの点に焦点を当てているが、行われている授業がかなり丁寧に行われていることを感じる。例えば、導入で紹介されている江戸時代の4人の為政者の行動を、当時の文脈や社会状況から考えさせるのは、なかなかに難しいだろうが、生徒のコメントから、きちんと文脈に合わせた記述が見られている。

 そうした丁寧な授業だからこそ、「他者理解の機会」として、生徒が歴史を意味づけたのではないか、と思う。

 また、歴史の意味付けとして「教訓」を取り上げるのは、何も歴史授業実践の有無によらないことを間接的に指摘していることも興味深い。自分が年度末などに生徒に取るアンケートでも、やはり同様の結果が出る。その時に、「これ、本当に歴史を深く考えているのかな・・・?」と思ったりもする。つまり、教訓としての歴史という要素は子どもなりに歴史の意味付けとして素朴に持っている感覚の1つであることが分かる。

 同時に、エンパシーを働かせる機会は、歴史授業を行う(社会科のかもしれないけど)意味づけの1つであることを感じた。「なるほど、だから歴史教育者がしきりにエンパシー、エンパシーと言っているのか」ということが分かった。

 一方で、歴史の「面白さ」については、古代史の方に多く感じるという結果もまた興味深い。意味付けや意義という観点で研究を進めると、どうしても前近代が捨象されてしまうのだが、そうなんだよね、歴史好きな人って、前近代の方が好きなんだよね、というある種の共感のようなものを感じた。

 また、自分の調査でも出てきたが、歴史が「好き」な人って、「学ぶ意味」を感じてやっていないんだよね。ある種の教養というか、趣味というか、そんな感じでやっている。でも、そういう人の方が、現行のペーパーテストでは歴史ができちゃったりする。つまり、歴史って知っている人(既有知識を持っている人)ほど有利な科目だったりするわけで。

 いずれにしても、なるほど、こうやって為政者や人物の「イメージ」から、エンパシーって可視化されるんだということが分かり、勉強になりました。ありがとうございました。

 

 

 

 

社会系教科教育学会で読んだ論考②

 星瑞希 歴史意識の向上を図る日本近現代史カリキュラム開発研究

 

 この論稿では、客観的に歴史認識を問う歴史教育から、自分自身や自分を取り巻く社会がどのように歴史によって形成されているのかを分析していく中で、自らの歴史と他者の歴史を比較し、その見方を批判的にとらえるという歴史教育への転換を目指し、カナダのSeixasらによって開発されたカリキュラムを参考にしながら、実際のカリキュラム開発を行ったものである。

 Seixasのカリキュラムでは、過去に何が起きたかを探究する概念と、現代に生きる我々が過去をいかに用いたり対象にしたりするかを探究する概念、過去と現代を比較し、類似点と相違点を明らかにする概念とに分けることができる。星他(2020)*1によれば、「過去探究概念」と「現在探究概念」を往還しながら単元を構成することで、「現在主義」を克服し、過去の文脈を精緻に読み解くこともできるようなカリキュラム構成となっている。

 このカリキュラム構成を応用し、星氏は、現行の学習指導要領の範囲の中で、カリキュラムを構成している。歴史論争問題ごとに単元を分節化し、単元ごとに最終課題を提示している。例えば、アイヌ問題の考察を通して「日本は単一民族国家か」というEQを提示し、「日本人」というアイデンティティがいかに構築されてきたかを考えさせるような単元展開としている。

 その後、実際に授業を受けた2人の生徒の学びを最終課題とインタビューをもとにまとめている。こうした授業を通して、ただ単線的で暗記をしていただけの歴史が多角的に考察できるようになったこと、学ぶ意味として「他者理解」の重要性について学んだこと、歴史の中で形成された考え方が今の自分の考え方につながっていること、などを感じており、歴史授業に意味を見出していなかった生徒が、意味を見出せるようになったことを指摘している。

 

 

 

(講評)

 昨年度星氏が発表したカナダのSeixasのカリキュラムを、日本の文脈にあてはめてカリキュラム化を目指した意欲作である。とはいえやはり、カナダの文脈と日本の学習指導要領という文脈の中で、かなり苦労してカリキュラムを作っているな、という印象である。それは、日本の歴史教科書や歴史授業が、論争問題をあまり取り上げていないこと、通史という制約の中で教えなければならないこと、などが要因として考えられると思う。

 自分自身は、歴史論争問題を取り上げることは、一種の「暴露型授業」に陥る可能性が高く、中途半端にやることは生徒に、逆に差別を助長するようなことにつながってしまうのではないか・・・。それゆえ、歴史論争問題を敢えて避けて授業をしている。もし取り扱うにしても、教師の側が口述する形で済ませたりすることの方が多い。

 そのため、歴史論争問題を取り扱った授業は、これまで行われてきた客観的な歴史認識をつらつら並べるだけの授業に退屈している生徒にとっては、有意味性を感じる授業となる。しかし、その一方で、単純に歴史が「好き」な人、知識や教養(あるいは受験目的)として歴史を学びたいと考えている人(「学ぶ意味」を深く考えずに歴史を学んでいる層、客観的な歴史認識を望んでいる層)にとって、この授業がどうであったのか、を知りたいところである。ここで挙げられている無意味→有意味になった生徒だけでなく、もともと歴史が「好き」な生徒がどう感じたのか、そこに有意味性を見出したのか、を単純に知りたいところである。

 

 

 とはいえ、「歴史を学ぶ意味」を意識した授業では、歴史論争問題をいかに取り扱うか、それをカリキュラムにどう位置づけるか、を考えることは必要不可欠である。そういう意味で、今回は明治から日清戦争まででとどまっていたが、やはり第二次世界大戦の辺りや、その後の現代史なども見据えてカリキュラムを構成していくことが、他の実践者にとっても、生徒にとっても有意味性を高めていくことにつながるのではないか、と考える。

 (とはいえ、ここから先の歴史は扱いづらいこともまた事実である。個人的には、全員がやる授業ではないところでやり取りする/現代の話題・関心から歴史を照射する形で考える、という方法で行うのが好ましいような感じがする)

 

 

(追記)

 この後、星先生から、様々にコメントいただきました。ありがとうございました。今回の実践が日清戦争まででとどまっているのは、コロナウイルスによる進度の問題とのこと。これ以降、何をテーマに取り上げて生徒に考えさせるかが楽しみです。

 

*1:現代社会における歴史論争問題に取り組むための授業構成」(『社会系教科教育学研究』第32号