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この日記を見ている人がどれだけいるのだろうか。
僕のことを知っている人はこの日記を見ているのだろうか。
ま、自己満足で書いている日記ですけどね。
何か、うちの学校ってやっぱり工業高校だったんだ、っていう感じで特別指導が立てつづけに起きている。
僕はこれについて、勝手に先生方のことを生徒が人見知っているんだと思っている。
今までいた先生が25人も異動し、しかもその25人がそうそうたるメンバーだったもんだから、その抜けた穴の補てんができていない。
それと僕は勝手に天人相関説に基づいて、生徒部の長が悪いと思っている。
話題を変えます。
今日、バレー部の生徒が生徒部の別な先生に注意されていた。
内容は、体育館の部活の生徒同士で決めた体育館のローテーション表が、顧問の間に伝わっていなかったというもの。
でも、それは生徒がきちんと顧問に言えば済むだけの話のはず。
それがなくて、今日決まった体育館のスケジュールにクレームが入り、それにその先生が腹を立てていたから、注意したというものだった。
確かに生徒の側にも、体育館でこうやって決めましたから、ということを生徒部のその先生に言えばよかったな、というのはある。
でも僕は、結局その先生がせっかく作ったものが無になってしまい、腹を立てて、自分の感情に任せ、自分勝手に注意しているようにしか思えない。生徒の為に注意しているとは到底思えないのである。
だから個人的には、すごく腹が立っている。そういう指導なんだと思うんだけど、生徒のことを全然信じていない、としか思えない。生徒主体にやれなくて何が生徒会だ、部活動だ、って思ってしまう。
確かにうちの生徒は、どこか欠けている部分はあるかもしれない。でも、だからといって、大人社会ですべてを解決してしまおう、生徒にはそれをトップダウンで落とそうとするのは大いに間違っている。それは民主主義社会に生きる健全な市民育成にはならない。ただの独裁国家、官僚制国家の追認でしかない。
そんな奴隷みたいな人間を作っているのを追認しているのが、うちの生徒部の長。だから、バレー部の生徒に注意したやつは今は水を得た魚のように働いている。本当に幸せそうである。去年とは大違いである。
反面、去年の方がよかった自分にとっては、そこが気に食わない。生徒を何だと思っているんだ、お前の感情に振り回されるような生徒を育てたいのか、真っ当な人間を育てる気はないのか、そう思ってしまう。
そして、その教えが今のバレー部の新規採用くんにも波及しているような気がしてならない。その新規採用の人は、自分のことを「先生」という。
残念ながら、僕は自分を「先生」と呼ぶやつは嫌いである。それは、自分のエゴイスティックな感情を押しつけることになるからである。
「先生でいることがそんなに偉いのか」
「先生なんて、所詮、先に生まれただけの人間だろ」
そんな風に自分は思ってしまう。
結局、バレーボール部も生徒のためではなく、自分の夢の実現のためにしか使わないのではないか、とハラハラしてみている。そんな人間はエリートである。官僚である。管理職である。
僕はそんなエリートを自慢するような教師にはなりたくない。
結局、「先生〜」と生徒がいつもいてくれる、自分を頼ってくれる、それが教師としてのステータスだと思う。うちの学校は、自分のエゴが見えた瞬間、そっぽを向く生徒が非常に多いから。
ま、僕は責任逃れをする気満々でいるので、これ以上は関与せず、ひたすらこのブログに不満をもらし、一人ですっきりするのが性にあっている。
今日もあの連合体は飲み会を開いている。せいぜい学校を壊す会議でも開いていればいいさ。過度に生徒を信頼しない態度こそが学校を、一瞬で破壊するぞ。今回の特別指導が続いている件は、その予兆に過ぎないはず。今に来るぞ、大きな津波が。