青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

2019年の展望

 先日日本社会科教育学会の機関誌が送られてきて、今自分が考えていることを言い当てている感じがしたのでその感想を述べたいと思います(批評とまではいかないので)。

 

 タイトル「社会的パフォーマンス課題における真正性の類型化と段階性の実践的検証」(豊嶌啓司・柴田康弘)(『社会科教育研究』135号、2018)

 

 自分の要約

 学習指導要領の改訂により、コンテンツベイスト(内容重視)から、コンピテンスベイスト(方法・資質重視)へと、学力観が舵を切られた。その中で特にパフォーマンス評価が近年注目されてきているが、筆者も(自分も)、特に以下のような課題があると感じている。以下、引用

 

 

それらの多くは、学習者を「現実の文脈」に位置付けるための典型的な方法「大人社会の難題を模写する」ことが目的化され、学習者の視座から切実さを実感できないものに陥っていないか。パフォーマンス課題が、学習者にとって、日常生活と乖離しているか、あるいは過度に難解であるため、学習者は、自己本位のファンタジー(幻想)又は他人事のアカデミック(学術)、いずれか極端な立場で学習せざるを得なくなる「教室のファンタジー」問題 が指摘される。つまり、学習者は現実の文脈としての挑戦感を持つことができない。

 

 その上で筆者は、近年「真正な学び論」で注目されるウィギンズ・マクタイ(これが学習指導要領や京都大学の石井英真先生らが主張する考え方)と、ニューマンの「真正な学び論」を比較している。その上で、ウィギンズ・マクタイの論が、「理解」としての学びの転移であり、一人で自己完結することが可能な行為であるのに対し、ニューマンは学校の外の共同体の人々を想定し、「言説」による共同体構築こそが「真正な学び」であると主張する。どちらがより「現実世界に挑戦して」いて、子どもに切実性があるかといえば、(少なくとも社会科においては)後者であることを述べている。

 

 

 この論をふまえつつ、社会科における「真正な学び」を保障する授業(市民的挑戦要件としての真正性を担保するための授業)を、

 1、学習者の意思決定又は問題解決方略に「波及効果・影響力」が生じる課題であること

 2、学習者の意思決定又は問題解決方略に他者に対する「責任」を考慮する必要がある課題であること

 の2点から類型化し、その実践例を紹介している。紹介された実践例は以下の通りである。

 

 1、効果・影響力、責任ともに大きい実践例

 「小学生に私たちの地域の特色を理解してもらうための学習計画を提案しよう」

 小中一貫校において、中学生が身近な地域の特色を学習した後、小学生により良くわかってもらうための教材を作成し、発表する。

 2、効果・影響力は小さいが、責任は大きい実践例

 「中学生としてわが町を盛り上げてゆくための決議文を採択しよう」

 生徒会活動の一環として行われる中学生議会に施策を提案する。

 3、効果・影響力は大きいが、責任は小さい実践例

 「特定の地域の地域的特色について説明する地理教科書を作成しよう」

 自分の住んでいる地域を取り上げるための教科書(教材)を作成する。

 

 

 

(自分の解説)

 この「教室のファンタジー」問題は、2つの意味で指摘をしている。つまり、地理や公民に見られるような例えば、「過疎化の問題を解決しよう」や「ある場所で見られる路上喫煙の問題を解決するにはどうしたらよいか」などの課題を、学ばせ、解決の手段をレポートにまとめたとしても、東京に住んでいる人には過疎化は「遠いもの」でネットで調べた「ありきたりな」答えしか出さないだろうし、それが地元の問題だとしても、議員さんなどにお願いして実際に政策として動かせるものでなければ、これも彼らにとって「遠いもの」で「切実性」をもたないものとなる。

 

 

 また、この論考のポイントは、例えば近年歴史総合の議論で見られる歴史的思考力に関する授業にも批判を加えている。「過度に難解」、「他人事のアカデミック」がそれにあたる。歴史総合でこれから始まる授業の多くは、(真面目に推進している人であればあるほど)この議論に陥っているような気がする。特に多いのが、資料として学者の著作を引用し、そこから当時の時代背景を読みとらせる試みである。難解な学術論文や歴史に関する著作を読み解きながら、新たな知見を得ることについては自分は好きだから「へえ~、そうなんだ」と学べるが、興味のない人や、そこに学ぶ「切実性」を見出していない人にとってはさぞや辛い授業となるだろう。

 もちろん生徒は、パフォーマンスはするだろう。しかしその成果物は、授業者の想像の域を超えないもので、特に進学校であればあるほど、同じ答えが金太郎飴のように生まれて終わりだろう*1。それを歴史的思考力が深まった、といってよいのかは議論の余地がある。

 

 

 

 そこで現在、社会科教育においては学びの「レリバンス(有用性・有意味性)」や「切実性」に関する議論が注目されている。この論考は、それを類型化し、議論の俎上に挙げた意味でとても大きな意味を持つ。

 

 

 しかし、それを実践レベルに落としてみると、どうしても「ありきたり」なものになってしまったり、「それ昔からやってるじゃん」という実践になってしまったりしている。論文に挙げられた3つの実践は、いずれも社会科教育に携わる先生なら当たり前のように知っている実践ばかりである。

 やはり「レリバンス」や「切実性」を科学に取り込むことは難しいのである。

 

 

 

 じゃあ、どうすればよいか、と言われればやはり「目の前の生徒の実態に合わせて社会科の授業をどうアレンジするのか」を考えていかないといけないだろうと思う。例えば同じ高等学校でも、「進学校」「実業系学校」「進路多様校」「教育困難校」「中高一貫校」で、生徒が何を目的に社会系科目に臨んでいるかは多種多様である。それは中学校においても地域的特性という要素から同じである。Aで実践できたものが、別なBの地域で実践できるとは限らないのである。

 こうした議論は、演繹的ではなく、帰納法的に集積してそれを「暫定的な理論」としていくことが求められるだろう。(昨日の日本のジレンマにもそんなのをひしひしと感じた)

 

 

 

 だから、現在の社会科教育においては、

 

 

1、生徒が「何のために学んでいるのか」(レリバンス・切実性)を教師の側が把握し

2、それに見合った内容(コンテンツ)を

3、様々なアプローチで

 

 提供できる力が求められているのだと思う。

 

 

 当たり前のことを言っているけど、それが非常に難しい。

 その上で、今できることは「1年間のカリキュラムの見通しを立てること」、「生徒の実態を把握すること」、「多種多様な学びの方法を学んでおくこと」の3種類なんだろうな、と思う。

 そんなことを思いながら、4月から今の学校で3周目の日本史Bが始まるので、歴史総合や日本史探究を見据えながら頑張っていこうと思います。

 

*1:自分が高校生に行ったパフォーマンス課題も、結局同じ答えが大量に出てきた。中には「これが答えでしょ」って感じの適当な解答も多かった。