青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

歴史教育を考える

 過日、全国歴史教育研究会(全歴研)の分科会発表を見てきました。

 かつて歴史教育系の発表は、歴史の内容をいかに教えるかに注視していたものが多かったのですが、歴史総合や探究科目に学習指導要領が変更されるからか、史資料をいかに活用するか、問いをいかに作らせるかに注視した発表がすごく多かったです。

 また、歴史総合においては、日本史に世界史的な内容をいかに盛り込むか(あるいはその逆)に関する発表をしていて、今の中1が高1になる頃から始まる科目への準備が着々と始まっているな、と感じています。

 

 今日の発表で一番感じたのは、「問いが先か、知識が先か」という視点。とりわけ今回の歴史の科目は「総合→探究」という流れで教えなければならず、「全体から個別」というのは難しいという質問がなされていました。

 そういった先生方の根幹にあるのは、歴史事実を知らなければ歴史は分からないという発想。つまり、知識が先、という発想です。これは客観的事実が外側にあって、それを教えるところから始まるという知識と価値の二元論の立場に基づく考え方です。

 こうした考え方は、1960年代のいわゆる科学主義に基づく考え方になるかと思います。そしてこれが強調されすぎたことが、歴史=暗記の要素を育む原因でもあるのだと思います。

 

 

 それに対して、特に第5分科会での発表や、いわゆる教育困難校の先生方の発表を聞いていると、「問いの生成」や、「現代社会を生きていく上で必要な手法を学ぶ」ための歴史教育を考えている先生方が多い。そりゃそうだ、教育困難校の生徒は、歴史事実を覚えることに何の意味も感じていないから。(専門用語でレリバンスといいます)

 そういった先生方の根幹にあるのは、社会的構成主義の考え方、つまり、人間の知識というのは個々人の認識によって獲得されるという考え方で、その認識を議論することによって、それが「事実」や「知識」として定着するという考え方です。これは、1970年代以降積極的に議論されてきた考え方で、つまるところ、「歴史は解釈に過ぎない」という考え方。これは知識と価値は一元的なものであるとする考え方です。

 だからこそ、問いを立てる手法を学んだり、「ifの歴史」を考えたりすることが重要であるとする考え方になりますし、むしろこれが今回の学習指導要領で目指されているものとなります。

 ただし、この発想はやり方を誤ると、形式主義・手法主義に陥るリスクも抱えていて、生徒の認識が「這いまわる」可能性もあり、逆に「何でこれやらなきゃいけないの?」という授業になりかねない。なので実は、教師の力量がめちゃくちゃ試されているわけです。

 

 

 今回発表されていた先生方や、少なくともこの場にいる先生方は、歴史を知識として理解し、その上で彼らに「どうやって教えたらいいだろう」と考えている先生方なので、おそらく新しい指導要領になっても、やり方を変えればいいだけ、になるかと思います。第5分科会の先生方も発表していることは、どちらかといえば手法主義に近いものですが、先生方の会話の節々には、歴史の内容をちゃんと現代に咀嚼して講義できる力量のある先生なんだろうな、というのを感じましたし。

 

 

 だからこそ、個人的には「問い」が先なんだろうな、と最近は思っています。でも、それをするためにこちらが用意しなくてはいけない知識や見なければならない本や資料はその数倍・・・。果たしてそこまでできるのかな・・・?という不安は同時にあるわけです。

 

 

 いずれにしても、全歴研でこうした「問いの生成」みたいな、社会科教育的要素が議題に上がり、議論されていることが驚きでした。そして、ああ、自分が院生の頃に大事だと主張していた、科学的探求主義が与党になったんだな、とつとに感じました。