青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

社会科とは⑨〜市民育成のための社会科〜

 多分駄文になるわ。

「市民」としての能力を養う教育に注目が集まる。

 教室の壁に、伊藤博文小村寿太郎陸奥宗光の顔写真があった。「今日から3時間を使って脚本作りをします」。岡田泰孝教諭(44)の宣言にクラスがわく。「朝鮮の人の役割は重要ですから、よく考えてください」

 お茶の水女子大学付属小学校(東京都文京区)の6年4組で、22日に行われた「市民」の授業。日本が国際社会に認められるため、各人の果たした役割や思いを考えさせるのが狙いだ。伊藤、小村、陸奥朝鮮人の各役を担う4人1組に分かれ、話し合いながら5分程度の劇を作る。これまでの授業で、大日本帝国憲法の発布から日清・日露戦争、朝鮮の植民地化などの歴史は学んでいる。

 「独立を求める朝鮮人のデモのシーンから始めよう」「伊藤博文が暗殺される1909年のハルビン駅にタイムスリップするのはどうかな」。各班から、次々にアイデアが生まれる。

 「世界に歩み出した日本」という単元(全11時間)の6時間目だった。



 同小の「市民」は、民主主義の担い手育成を目指した、社会科に代わる授業だ。この目標は戦後、社会科ができた当時の理想でもある。「劇を作ることで、為政者と、そうではない立場が、どう折り合いをつけて社会を作っていくか、感じ取ってくれれば」と岡田教諭。

 これまでも、「コシヒカリ」と「はえぬき」を試食したうえで、「和食店を作るなら、コメの直営農場をどこに作るか」を議論させたり、日本の国土を学ぶために「次の世界遺産候補」を考えさせたりする授業をしてきた。「手に入る情報を活用して、未来の社会を考える力を育てたい」

 同小は、付属幼稚園、付属中との連携に取り組んでおり、中1の社会科にも「市民」の単元がある。また、各学年、各授業で一貫して話し合いを重視し、12年間を通じて市民意識を形成することを目指す。31日には公開研究会も開かれる。



 このような教育は、「シチズンシップ(市民性)教育」と呼ばれる。調べ学習や話し合い、創作劇などの手法を用いながら、市民として意思決定や価値判断できる力をはぐくむ教育だ。

 移民の増加や若者の政治意識の低下などを背景に、1990年代に欧米で始まった。日本でも教育学者らが注目、実践も広まっている。東京都品川区では昨年度から、道徳と総合的な学習、特別活動の時間を使った「市民科」を全区立小中学校に導入した。小中一貫教育の中で、生活マナーやルールを身につけることから政策提案に至るまで、段階的に学ぶプログラムを開発している。

 英国のシチズンシップ教育を研究する京都教育大学の水山光春教授(53)は「社会的知識と公民的資質と、どちらを身につけることに比重を置くべきか、日本の社会科教育界では長く議論され続けてきた。シチズンシップは一つのヒントにはなる」と話す。

 現代社会にふさわしい「社会科」を求めて、教師たちの模索は続く。(松本由佳、写真も)

 英国では中等学校で必修 英国の中等学校では、「地理」「歴史」に加えて2002年、「シチズンシップ」が必修化された。政治的な知識を学ぶだけでなく、地域社会への参画や市民としての行動力を養うことを目的とし、メディア教育や国際理解教育も含む。ただし、国の定めるカリキュラムには簡単な指針があるだけで、指導内容や教材の選択は教員に委ねられており、質のばらつきも指摘されている。

(2007年10月26日 読売新聞)

 最近はこうした「シチズンシップ教育」というのがはやっているみたいです。
 まあ、書いてある通り市民としての意思決定や価値判断をする力を育む教育のことなんですが、この「市民」っていう言葉がくせものですね。構成主義の立場に立てば「ある特定の共同体の中に生きる私たち」っていうニュアンスになるのでしょうが、ただ教え方を間違えると結局「国民性」を養う教育になってしまう可能性があるのでそこは注意しないといけないと思います。


 こうした背景にはきっと共同体の崩壊というのがあるのだと思います。昔のイメージだとしつけは近所のおじさんも含め、地域皆で行うものでした。しかしそんな風潮も廃れ、今ではマナーやルールすら身につけさせない(させることのできない)親だっているかもしれません。
 それを学校に押し付けるのはどうかとは思いますが、「市民」育成の第一目標は残念ながらそこにあるような気がします。そうした押し付け型の「市民科」はどうしても「国民科」に化けやすいような気がしてなりません。


 また、こうした議論を見ていると、どうも「社会科不要論」がちらつきはじめてしまうのは事実だと思います。前回のゼミのように「個々が関心のある共同体で生きるための専門的知識を学ぶ教科としての社会科」というのは、それこそ社会科教師の専門性を否定するものであるし、「市民」としてよりよく生きるなんて何も社会科の先生に限ったことではありません。人間誰しもが「市民」としてよりよく生きなければならないのです。


 ただシチズンシップを肯定した上での方法論を考えたとするならば、社会科の教師は「市民」を育成するリーダーでなければならないし、その方法としてはクラスという共同体の中における意思決定(=話し合い)の機会を多く設けるべきなのだろうと思います。ただ、その前提には知識が必要である事は言うまでもありません。社会科の先生が学校におけるブレーン(一番の物知り)でなければならないというのはそこに端を発するのだと思います。


 ただ例えば「よのなか科」や「生き方科」、「市民科」とこうした現代社会をみんなで考える「社会科」との境界線は非常に曖昧だと思います。そうなると「社会科」が住み分けるためには知識注入でもいい、っていう議論もなくはないのですがね。それかいらないか。