青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

『社会科教育研究』第139号を読んで①

 『社会科教育研究』139号が届いたので読みました。

 今回のは面白い論稿があったので、いくつか紹介します。

 

 小栗優貴・中山智貴「社会系教員志望学生は社会科教育に関する講義の何にレリバンスを見出したかー再生刺激法を通した教育大学大学生の自己報告を事例にー」

 

(内容)

 大学の教科教育法(特に社会科教育)に関して、これまでは「政策者や大学教員側」からの考察であり、「社会系教員志望学生(大学生)」の側が、講義に何の意味を見出しているのか(いわゆるレリバンス概念)という視点では研究がなされていない。

 そのため、この研究では、「社会系教員志望学生は、社会科教育に関する講義の何にレリバンスを見出したか」をRQ(リサーチクエスチョン)とし、再生刺激法を用いた質的研究から明らかにするというものである。

 調査の過程では3人の生徒のインタビュー結果を紹介している。その結果として分かったことは、

  1. 「子どもの面白さ」「興味関心」という観点から実施された講義に対してレリバンスを形成していること
  2. 「子どもがついてこれるか」「子どもの差を生まないこと」といった観点から実施された講義に対してレリバンスを形成していること

 であり、さらに、そこから考察されることとして、

  1. 大学生は、社会科の理論・実践に対してレリバンスがあるわけではなく、教育一般事項にレリバンスがあり、講義を受講している可能性が高いこと
  2. 社会科としての理論・実践にレリバンスを見出さないのは、学生が現在的・個人的レリバンスのみしか見いだせていないことが原因となっていること

 をあげている。

 その上で、大学生が「社会科の」理論もしくは実践に注目したレリバンスを形成していくような講義カリキュラムの必要性や、社会科教師としての社会的役割を自覚化していくことのできる講義カリキュラムの必要性を指摘している。

 

 

(個人的に思ったこと)

 この研究は、現在さかんに行われている(というか、自分的にブームになっている)、社会文化的アプローチからみるレリバンス研究であり、主体を「受け手側」とし、受け手側の記録や発言をもとにして、仮説を生成し、論を組み立てるという形式のものである。そういった点で、従来の教員養成研究に大きな示唆を与えるものだと思う。

 特に、社会科の教員志望の学生であっても、「子ども」や「教育一般」に注目して語ることから、社会科教育の意味をもっと意識づけるべきという点は首肯できる部分だろう。

 だが、この研究は、大学生のニーズに合わせた時に、社会科教育学不要論にならないかが心配である。特に、社会科理論に関する大学教員の発言は聞き流す傾向にある、という部分からは、だからこそ「社会科を」ではなく、だからこそ「もっと教育手法を」という議論にならないだろうか。

 渡部竜也氏がしきりに批判しているが、現在の教科教育法は、教科教育学は不要であり、教科教育法は「内容学者+教育学者(具体的には教育手法学者または、現場教員の経験)」で成り立つという視点の下に教科教育が行われる。そうなった時の一番の危険性は、従来社会科は、「社会認識形成を通して市民的資質を育成」する科目であるにも関わらず、この発想では「既存の学問をいかにかみ砕いて生徒に教えるか」が教科目標となってしまう。そうなった時に、子どもの学びが「大学の学問の下請け」となってしまうことである。それこそ大学入試改革や、今次学習指導要領改訂が、(そうならない側面が多分に含まれているにも関わらず)学問的手法をいかに教えるか、に終始してしまっている要因はそこにあるのではないか、と考える。

 

 また、対象としている教育法の授業が、渡部氏の分類によれば「現代課題対応型(状況対応型)カリキュラム」に分類されるものであり、こうしたカリキュラムの場合には、内容を教えることは前提としてあるため、どうしても議論が「手法」や「子どもの様子」に向けられてしまうことも考慮しなくてはならない。だからこそ、対象となった学生は3人は、その志望理由は異なれど、目の前には「教育実習」という状況もあり、必然的に議論が「子どもにとって」とか「発達段階」とか「楽しいかどうか」という視点でしか議論しなくなってしまうのである。だからこそ、これは大学生の特質、というよりは、この講義が抱えている特性をふまえて考えなくてはならない。

 

 

 だからこそ、次に考えなければならないのは、「授業理論相対型カリキュラム」の講義を受けた学生が、社会科の授業をどう考えるか、をていねいにまとめる必要があるだろう。そして、(これが最も大切だが)社会科を志望していない学生が(それは、小学校免許のために専修の違う学生が授業を取りに来ている場合だったり、将来の「保険」のために教員免許を取りにきている場合だったりをさす)、どんな「レリバンス」でこうした授業に向かっているのか、を考えることが重要だろう。そうした視点で見ることこそが、「社会科教育学って何ぞや」、や「どんな教科教育法が理想か」を考える際には最も有益であると思う*1

 

 

 いずれにしても、こうした研究が、『社会科教育研究』に載ることによって、改めて社会科の「レリバンス」とは何ぞや、を考える機会となりました。ありがとうございました。

*1:自分も、現在こうした類の調査をする時には、「そもそも興味のない人」がどう考えるかを特に大切にしている。なぜなら、彼らは彼らなりに考えており、その声を拾うことの方が、よっぽど本質に迫れるからである。