青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

社会科教育に関する本

 

主権者教育論――学校カリキュラム・学力・教師

主権者教育論――学校カリキュラム・学力・教師

 

  

読書紹介 渡部竜也『主権者教育論』

 

 本書は、2005年に東京学芸大学に赴任してから渡部竜也先生が、主に2010年以降に述べられた、主権者教育に関する論考を1冊にまとめたものである。

 

 

 著者の主張は「まえがき」のこの部分にある。

 

 主権者教育の成功の鍵は、教師が変革的知識人としての自らを認識し、子どもたちにとって意味のあるカリキュラムを主体的かつ協働的に創造できる存在になることにあるし、これを避けて真の主権者教育はあり得ない、ということである。

 

 そして、この考え方に基づいて、カリキュラム・学力・社会科教育学研究・教師教育の4つの視点で論考がまとめられている。

 

 とりわけこの著作の述べる考えたに大きな影響を与えているのが、これまでに翻訳した、ソーントンの「ゲートキーピング」論、バートンとレヴィスティックの「コモングッドのための歴史教育」論、ニューマンの「真正の学力」論である。

 これら3つの翻訳本で述べられている考え方をもとに、自分が本当にざっくりとまとめると、以下の3点について、その対案となる考え方や、日本の学界、授業研究の実態をふまえながらまとめている。

 

 ① 教育における「ねらいについての議論(aim-talk)」の重要性

 ② 教師による「実際になされたカリキュラム(enacted curriculum)」の重要性

 ③ 学習者の社会的文脈と、文脈知をふまえることの重要性

 

つまり、教師は目の前の生徒の実態、置かれている状況に合わせて、学習カリキュラムを自ら作るカリキュラム・メーカーであるべきであり、その際に重要となるのは、「何のために」その授業をするのか、その科目を教えるのか、ということである。

 ただし、その「何のために」は、「受験のために」や、「学習指導要領をそつなくこなすために」であってはならず、「民主主義社会の担い手としての主権者の育成のために」でなければならないのである。

 では、「民主主義社会の担い手としての主権者」とはどのような能力を持った子どもか。氏の子ども像はあとがきに述べられている。

 

 「公的な問題についての批判的かつ建設的な対話」、つまり、「公的な問題についての様々な異見に耳を傾け、それを批判的に吟味し、賛同を述べ合って、見解を磨き合うこと(問題解決のよりよき提案をすること)」ができるように子どもたちを育てていくことだ

 

 特に、こうした議論を考えていくうえで、氏が特に批判をしているのが、

 

 1.相対的な授業分析や、学習指導要領を無批判に受け取るような教員養成のあり方

  (主に東京学芸大学が挙げられています)

 2.学問主義によりそった社会科教育学の在り方や、学校知と生活知を切り離すような考え方 (主に森分孝治氏の考え方が挙げられます)

 

 3.「真正の学力」と言ったときに、それが「文脈知」ではなく、「内容知」の視点から議論を重ね、それを「真正だ」と言っている学力観

 (これは、ウィギンスやマクタイの考え方を援用している石井英真氏が挙げられています)

 

 

 そうした対案にある考え方を可能な限り引用したうえで、自らの主張を述べています。

 先生の著作や考え方を読むと、いつも自分の社会科教育観が整理されます。その一方で、自分はこの考え方に基づいて社会科を教えることを目指してはいるけど、現実にはできていないことを痛感させられます。(それは、学校の文脈に応じて、自分が意図的に「ゲートキーピング」しているからだと思いますが)。とはいえ、今やっていることをきちんと批判されているような感じがするので、先生の本を読むと、自分の立ち位置が確認されます。まさに「異見に接する」ような心持ちです。

 

 

 常に「健全な批判的精神」を持ち続ける続ける先生に敬服しつつ、その理路整然たる主張を受けた先生のゼミ生たちが、現在多くの現場で活躍しているので、いつか先生の考え方が主流になることを期待しています。なにせ、いわゆる広島学派も自分が大学に所属していたころは東京では「野党」でしたし、学習指導要領を批判する側でしたが、現在の指導要領では完全に「与党」になりましたから。

 

 

 とりわけp.427は氏の思いがこめられていて、「これ載せていいの?」っていう感じの主張になっております。どんな内容かはぜひ本書を買ってご覧ください。