青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

「学校」を作り直す

 

「学校」をつくり直す (河出新書)

「学校」をつくり直す (河出新書)

 

 

 苫野先生が考える公教育の本質は(どの著作でも書かれていますが)、

 

 「自由の相互承認」

 

 である。

 

つまり教育は、すべての子どもに「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、すべての子どもが「自由」に生きられるための“力”を育むためにあるのです。

 

 これが苫野先生がずっと言い続けている主張である、本書では社会の急激な変化から、今こそこの本質に立ち返って、学校を作り直す必要があることをものすごく主張している。

 苫野先生は「自由の相互承認」をするためには、画一的な年齢集団による一斉授業、手段が目的化してしまっている校則(髪型や服装の徹底など)はやめ、もっと生徒の「探究」を進めていくこと、先生は生徒の「探究」をサポートしていく存在であるべきだと主張している。

 そうした取り組みはすでに行われていて、例えばイエナ・プランを導入している教育委員会、伊那小学校の伝統的な学校運営や、麹町中学校ですすむ学校改革などがそうした例として挙げられる。

 でも、こうした教育をするにあたってはまだまだ制約も多い。特に、内部の教員からの抵抗が一番大きいだろう。例えば、髪型や服装を校則で規制しなければ生徒が「荒れて」しまう、などといった発想である。

 もちろん苫野先生からすれば、それを「荒れている」と判断しているのは誰だ、っていう話であり、「金髪だから」学ばないというのは絶対に違う、その生徒はあくまで画一的にされることを拒んでいるのであり、「探究」したり「学んだり」する欲求はある。今いる環境や周りの言葉かけがその子の「探究」や「学びの意欲」を奪っているのだ、と主張する。まあ、至極ごもっともだよね。

 こうした学校が陥っている様々な改革を阻む要因を、苫野先生は丁寧に一個ずつ著書の中で打破していっています。丁寧に優しく。でも、その丁寧な説明だからこそ、何としても実現させねばならない思いを感じることができます。

 

 特に自分はこのページが好きです。

 

もっとも、このようなプロジェクト型のわたしの授業に、全員没頭しているかと言えば、もちろんそうではないと思います。でも、ある意味それでいいとわたしは思っています。これらの授業に、もし強い関心を抱いたなら、この機会にとことん探究を深めてほしい。わたしをどんどん活用・利用してほしい。でも関心がなければ、無理やりやる必要はないし、やったふりをする必要もありません。学びとは、与えられたものをできるだけ省エネしてこなすもの・・・そんなマインドから、とにかく脱却してほしいと思っています。(p.229)

 

 自分も最近はこの矜持でいます。自分の授業に全員が没頭する必要はない。自分の授業が合わないなら、予備校の日本史のテキストを開いてもいいし、自分の授業を別に聞かなくてもいい(こないだの先輩に聞く会で卒業生が塾のテキストを信じて先生の授業は聞いてませんでした、とはっきり言ってたな。でも、自分はそれはそれでいいと思っています)。単位はあげるし、出席は最低限履修オーバーにならなければ、それはそれで全然いいと思っています。

 ただ、やっぱり「受験(選抜試験)」というものから逃れられない「進学校」は、「与えられたものをできるだけ省エネしてこなすものというマインド」からは抜けきれないんだろうなあ。そんなんじゃ全然面白くないんだけどなあ。 

 この「マインドの打破」をめざすのが次の日本史授業、と自分に言い聞かせて頑張ろうと思います。

 

 

 ミライの学校の姿をみることができ、教えることが楽しくなるような本です。現職の先生ほどぜひ読んでほしい本ですね。