青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

高大連携歴史教育研究会をzoomで参加

 便利な世の中になりましたね。家にいながら、歴史教育の研究会に参加できるなんて。

 ということで、今日は高大連携歴史教育研究会の研究会に参加しました。

 午前中は、「新学習指導要領の歴史系科目を通して、いかなる「資質・能力」の育成を目指すべきか」(感染症と社会)に、午後は、「中学校、高校、大学の接続と歴史的思考力の継続的育成」に、参加しました。

 

 午前中は、タイトルにある「資質・能力」への言及はほとんどなく、ただの「感染症をいかに扱うか」に終始していた印象でした。また、行壽先生のように、中学生を相手にしていれば、扱う資料は極力少なくして生徒に読み取らせ、そこから生徒との対話を通して考えさせる、という「授業のリアル」が具体的にみられて面白かったのですが、高校に上がっていくと、よくある「ネタ系」と「資料提供」となり、大学の先生になれば、こうした歴史教育系のところであるあるの、「自分の専門をぜひ扱ってアピール」になってしまっていました。こうした傾向は、午後のシンポジウムを主宰していた野々山先生も注に書いていますが、単に「新たなテーマ史」が増えただけ、になってしまわないか心配です。

 また、ブルームのタキソノミーの話も出ていましたが、これも文部科学省が出しているから使ってみよう、感が強かったかなあ、と。あれは教育学というか、教科横断的な発想で用いられるものじゃないかな、という印象。とはいえ、そんなのあったんだ、ということが知れたので勉強にはなりました。

 

 

 

 午後は、「歴史的思考力」に関する議論。まずは、星先生が報告。こうしてWゼミのゼミ生が、ごりごりの歴史教育系の学会で発表していることが斬新でした。原田先生や梅津先生が参考文献に挙げられることはあっても、バートン、レヴィスティック、渡部先生が参考文献に挙げられるという世界線

 報告自体は、エイムトークや、社会的文脈論、レリバンスの話なので、自分的には何の違和感もないのですが、これをこの分科会の報告者がきちんとシェアして、それを提起しているっていう光景が、なんというか、革命的でした。これを歴史教育者や、歴史教師*1が、どう受け止めたのか、が個人的に気になります。

 福崎先生の報告は、学習者の学ぶ「文脈」に着目しようと、例えば豊嶌・柴田論文に取り上げられていた「教室のファンタジー問題」や「ガチ度」の話や、ヴィギンス・マクタイとニューマンの違いを取り上げ、生徒のレリバンスを意識した授業実践を目指していますが、こと日本史の、しかも前近代となると、やはりそれが難しいんだな、という印象。

 具体的に扱われていた「問い」が、「秀吉の朝鮮派兵をあなたは何と表現しますか」と、「江戸の改革は普通、三大改革と呼ばれるけど、本当にそうか。あなたなら、〇大改革にするか」という問いで、これは、W先生の「Doing History」でも批判されていた、マニア向けメタ・ヒストリーになってしまっている。

 とはいえ、進学校という文脈上、やむを得ないのかな、と個人的には思っています。また、「秀吉」の方は、問いが「韓国からの留学生との対話」という条件に変わっているので、これならば真正性があがったのではないか、と感じます。

 個人的に、自分がこの改革の辺りをやるのであれば、「改革が語られるときは、どのような時か」ということをテーマにやるかな、と思います。基本的に「改革」といった時には、「政治の刷新」を意味するので、それまで行われてきた政治を否定しますよね。例えば、小泉純一郎は「古い自民党をぶっ壊す」「痛みを伴う構造改革」という言葉を用いて、自らの政治の正当性を主張していました。安倍政権も「働き方改革」「大胆な改革」など、しきりにキーワードとして用いています。

 結局、寛政の改革天保の改革も、吉宗の頃に行われていたものを、「善」とし、それまでの経済開放的なものを「悪」と断じて、自らの政治の正当性を主張しているに過ぎないんですよね。松平定信がその典型ですよね。そんな視点でやれたら、もう少し真正性が増すんじゃないかな、と思います。

 

 

 野々山先生の報告は、以前高大連携で見た資料は、とても歴史歴史していたので、生徒の学びと乖離しているのでは、と批判したこともあったのですが、今回の報告は、生徒の「問い」から資料を持ってきて、現代社会の意義を、世界史を通じて考えさせていて、「すげーなこれ」というのが正直な感想でした。まさに星先生が示していた、『歴史的思考プロジェクト』のものに近いなあ、という感じでした。例えば、グージュの「女権宣言」を史料として提示し、当時はこの考え方は受け入れられずにグージュは処刑されてしまう、現代に生きる私たちは彼女の慰霊碑を作るべきか、を問いとして投げかけ、生徒に考えさせていました。扱っているテーマも、ジェンダー、平和など、それを史料として投げかけ、現在に生きる生徒が過去を照射するというアプローチがとられており、面白いな、と感じました。

 何よりも、生徒の疑問や問題関心から、史料を持ってきてそれを示すバイタリティーが半端ない。おそらくこういう授業が、歴史総合が目指したい授業なんだろうな、と感じました。

 

 

 この分科会では、「歴史的思考力」はこれだ、と1つに断定することはできない。生徒の文脈をふまえ、教師がゲートキーピングしていくことが共有されていました。それを共有した上で、「歴史的思考力」に関する議論が展開されていたような気がします。そもそもの「知識どうするの?」「受験大丈夫なの?」的な話が出なかったことが、それを物語っているような気がします。

 

 

 最近、授業も受験をみすえて講義しかしていない状況なので、いい刺激になりました。ありがとうございました。

 

 

 それにしても、家にいながらこうやって刺激を受けられるって、zoomって本当に便利だね。ずっとこうやって学会してほしいな。

 

*1:個人的には、歴史授業=歴史学的知見+教育方法と考えている先生、あるいは内容と方法の二元論で考えている先生をさす