青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

教えること、教えないこと

 長くなります。


 最近、教えることって何だろう、って考える事があります。
 きっかけは社会的構成主義*1を少し学んだからなんだけど。
 おとついの5時間目に、社教の人が報告した後に、自分にコメントを求めてきたので自分はこう言いました。





 昨年度の裁判員制度の授業をした時に、自分の目標は裁判員制度を批判的にとらえる視点を養うことだった。それで模擬裁判をしたり、いろんな形で判決を出したりしながらあれこれと試行錯誤した。その結果、3時間で子どもたちは感じた事をいっぱい書いてくれた。自分の目標に彼らの社会認識は到達していた。
 しかし、自分はそんな彼らの意見を無視し、再び判決を出す(話し合いをさせる)授業をした。自分がやった時は子どもの考えも変わっていたし確かな手ごたえがあったのだが、年度末の反省会の時に先生が




 子どもたちは飽きていた。



 ってことを言われた時に、「そうか、彼らの判決結果の変容は、自分たちに対する無言の抵抗」だったんだ。そう考えると、自分がした最後の授業は彼らにとっては全く意味のない、無駄な1時間だったのか…。
 そして先生は




 彼らがここまでの認識をもったのならば、彼らの意見をふまえて授業を作ることが大切である




 まあ、自分はそれを授業している間に言えよ、と思いました。




 でも、多分ですが、あの頃の自分たちならそれを言われても、修正することはなかったと思います。




 自分が考えていた批判的授業は、自分が資料を提示し、自分が話す、これを軸としていました。
 要は自分の言いたい事を言うだけの授業、ってことです。
 しかし、小学校の授業はその逆で、子どもに意見を言わせて子どもの意見から問題をすくいあげて、子どもなりに考えさせていく、というスタンスを取ります。
 2月までの自分は小学校のそうしたスタイルに全く気付いていませんでした。むしろ年度末にそうやって言われて今になってようやく「そういうことか」と分かったほどです。




 自分が思っている授業というのが、教師は子供に何かを教える存在である、という伝統的な教師観に基づく授業。東の社会科教育学でいうところの系統主義に属する授業観。気づかされた授業というのが、教師は子どもの認識を高めるための支援する存在である(子供に気づかせる、教えない)、という授業観。いわゆる問題解決主義と呼ばれる授業観です。前者は中学や高校の先生が、後者は小学校の先生がよくとる授業のスタンスです。





 最近、自分はそうした経験も含めて子どもに「教えすぎている」のだということに気が付きました。そしてそれが自分の授業観の欠陥であることに気が付きました。
 でも、「教えない」というのはただ、感想を言い合わせるだけの子どもを低次なままほうっておくという授業ではありません。豊富に持っている知識を敢えて示さずに、気づくのを待つ、あるいは気づいたことを高次なものへ持っていく技術、これこそが自分に欠けているのだ、って思います。



 だから、適度に教え、適度に教えない技術を現場では身につけていかないと、そのために今は教養を身につける段階なのかな、と思っています。
 まあ、これは研究ではなく、あくまで自分の授業観なので、ね。

*1:知りたければ昨日の日記を見て