青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

否定と批判①〜学習指導要領と社会認識教育学をめぐる誤解〜

 以下例によって長文。

 今日の朝は、とても気分の悪いメールで起こされました。
 内容は、ゼミの先生(以下W)が昨日(27日)、ゼミの黒板に書いてあるゼミのスローガン「学問は格闘技です」に対し、うちの最低な修士論文の指導教官(以下S)が「これ嫌いだから消してよ」といちゃもんをつけてきた。刃向っても仕方ないので、W先生は言われた通りに消した。
 しかし、自分の思想、及び学生の思想を否定したことが、本当に煮え切らなかったのか、昨日のうちにうちの大学のキャンバスライフ委員会という苦情を訴える機関に提訴したという内容のものでした。



 本当にうちのゼミの先生は、弁はすごくたつし、よのなかのこともきちんと分析できるし、何より切れ者で本当に頭がいい。論文なんかを読むとそのことがよくわかる。だからこそ、自分はこの先生のところで勉強すれば、少しは「よい」社会科の授業ができるだろうな、と思い、3年間ついてきたわけだから。
 だけど、弁がたちすぎるのが傷である。どういうことかというと、先生にとっては相手を批判しているつもりでも、当人にとっては否定されているように感じてしまう、ということである。




 以前にもこの日記に書いたのだが、批判と否定は異なる。批判は、相手の意見をくみ取った上で、その意見の矛盾点を指摘し、誤りを修正することによって、より高次なものへと発展させていくために述べる意見であり、否定は、そんなのは抜きにして「嫌い」だから、相手の人格にまで踏み込んで意見することである。
 そして、教育学部の学生は、自分も含め、相手に意見されることは批判された、ではなく、否定された、と受け止めてしまう傾向がある。



 例えば、W先生はよく、「小学校の学習指導要領社会は最低だ」という。これは、学習指導要領の社会が、地域を愛したり、国を愛したりしてもらうために、各学年において、いずれも地域や国家に貢献している人を通して社会を理解させようとしている。当然、そこには社会で問題になっていること、政治問題、経済の問題などは不問に付されている。というか、そもそもこの社会科は自民党のえらいさんが作っているわけだから、こうした社会を批判されてもらっては困るのである。
 こうして自民党(今は民主党か)のような政府は素晴らしい、あるいは、政府の問題点には気づかせないような科目として社会科を構成している。そこから生まれるのは、こうした仕組みに気付かない一般大衆と、その仕組みに気付いているのだが、こんなにいいシステムはない、と逆にそれを利用して日本を動かすエリートという二極化である。
 今の学習指導要領は、エリートと一般大衆の二極化を生み出すから問題だ、このままだと健全な市民は育たない、だから学習指導要領社会は、市民を育てるという点では最低だ、というのが先生の思想の根拠。




 ただし、こうした説明は難しい(自分の理由も怪しい)上、小学校の現場に出たら、結局学習指導要領に沿ってやるんでしょ、じゃあ、意味ないよね、ってことで、「W先生は学習指導要領を批判(否定)する最低な先生」というレッテルが貼られてしまうわけです。



 また、以前訴えられたのは「社会科に地理はいらない」という発言。これだけ引っ張ってくると、確かに最低教師ですよね?
 でも、これもちゃんと理由があるんです。うまくは説明できませんが出来る限り説明します。
 日本の学習指導要領における地理学習は、大きく二つの側面を持っています。ひとつは、同心円拡大原理、もうひとつは、網羅的地誌学習です。



 一点目の同心円拡大原理とは、学習の範囲を、子どもに身近なものから始め、それをだんだん広げていくという発想。例えば、3年の社会は自分の住んでいる地域調べ、4年の社会は自分の住んでいる都道府県調べ、5年の社会は私たちの住む日本調べ、6年生は歴史+政治+世界に住む人々、といった感じで、子どもに身近で観察可能なものから、徐々に抽象的で観察することができないものへと拡大していくという原理。
 この原理自体は、発達心理学上極めて有効な考え方なので、否定することはできません。しかし、これが日本の学習指導要領は、愛国心愛郷心形成と深く結びついているのです。
 例えば、3年生で広島に住んでいた人が、4年生で転校して東京に移り住んだらどうなるでしょうか。4年生では東京都について勉強します。でも、その子は東京都については全く知りません。むしろ住んでいるところがどういうところかも知りません。それなのに、4年生では東京都だけを調べさせ、東京都だけについて知ることになります。
 同心円拡大原理の問題点は、子どもを地域から脱却できない人間にするだけでなく、その地域の事象だけを深く理解することになり、他の地域の理解には結びつかないという点で欠点があります。




 これを補う原理として例えば米国では環境拡大原理といい、都市、工業、農業、などの項目別に、様々な地域を比較し、その一般的特質を明らかにするカリキュラムも存在します。




 また、もうひとつは、日本の地理学習は往々にして、地域の特産物や特色に注目させます。例えば青森県なら、りんご(農業)、ねぶた(祭り)などといったところでしょうか。これが47都道府県全部、世界なら190の国のすべての特徴を理解できるでしょうか。そんなの社会科教師でも無理です。
 だけど、地理の調べ学習は往々にして、こうした特色にばかり注目させます。これでは事象の暗記、地理博士だけが生まれてしまいますし、そんなの社会に出たところで何の役にも立ちません。歴史と一緒で、地理は地名や特産物の暗記学習になってしまいます。



 地理は社会科の一領域だから、地理的事象を使って政治的判断や経済的な問題などを考えることが重要なのではないか。むしろ、社会科とはそういう科目だ。だったら、地理もそのように考えるべきである。ということは、今やっている地名暗記や地域大好き人間を育てる地理は、社会科という科目にとっては無意味だし、社会に出ても何の役にも立たない。だから、



 「社会科に地理はいらない」



 のです。
 ただ、これも説明が難しい上、結局現場に出たらやらなきゃいけないんでしょ。おまけに、地理学からしたら、地理的事象を理解したり、地理的思考をして何が悪い、という発想になるので、もめるわけです。