青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

地理って面白い! 

 昨日は、都の地理歴史科の研修でした。
 昨日の歴史のは「・・・」って感じでしたけど、地理のはものすごく面白かった。
 新指導要領の説明をしたのも広島の人だったので、改訂された地理のテーマでもある「動態地誌」についても理解できたし、地理Bでは、「静態地誌」(網羅的)、「動態地誌」(トピック的)、「比較地誌」の3つを使い分けて、その地域の特色を教えることが重要である、ということが理解できた。



 何よりもその後の実際例の際に講義されていた都立高校の地理の先生がものすごくよかった。



 地理屋さんにも大きく2つのタイプがあるように自分は思う。
 ひとつは、「地理というアイデンティティを強く意識して授業をするタイプ」、つまり、地図は正確に書かないといけない、現地に行ってきた経験が豊富で、写真を見せまくってその地域の特徴だけをひたすら追いかける、地名や特産物など、地域の特徴に強いこだわりを持つ、そんな先生がいるでしょう。
 そんな先生は、昨日の「日本史の」教員と一緒で、「地理の」教員というアイデンティティを強く持っている、そんな気がします。



 でも、教えてくださった先生は違っていました。
 以下、その先生が授業していて、印象に残ったことを羅列していきます。

  • 地理屋さんなのに世界地図が適当(赤道なんて曲がっていたし)。つまり、細かい地図にはこだわりをもっていない。
  • インド・中国・日本・インドネシアに人口が多く集中している→この地域の生産の中心は米であり、米は水の多い所で生産される。そもそも東南アジア一帯には夏にモンスーンが吹いているから、雨が多くなり、これが稲の生育に影響を与えている、みたいな感じで説明していた。それとの対比で、小麦は連作が効かないから生産能力は少ない。だから、ヨーロッパの人口はそれほど増えない、みたいな話もしていた。つまり、現象の本質を見抜いて教えていた。
  • 中国は一般的に「西低東高」の経済体制と言われているが、これは、中国だけの問題ではないのではないか。ベルギーは?日本は?東京都は?みたいな感じで、同じ事例を他地域にもあてはめようとしていた(一般性の抽出)。
  • だからこそ、東京都の地形で、台地のところでは水田がひけず、小麦が生産され、そこから「うどん」なども小麦を使ったものが生まれる、また、水をひくために江戸時代のオランダの「風車」を参考に、「水車」が生まれた、という話から、ある生徒が「そうか、だから道頓堀には水車があるんだ!」という発言をしていたという話をしていた。これは、一般性を他の事例にあてはめている=思考・探究している典型と言えるのではないだろうか。


 これは単純に明日の地理の授業に使っていきたいと思ったのですが、それよりもすごかったのが、地理Aの授業で、テスト後の数時間を使って、論争問題学習を積極的に取り入れていたことにものすごく感銘を受けました。
 例えば、その先生の勤務校はうちの大学の近くなので、「けやき市のゴミ焼却をめぐる問題について、どこにゴミ焼却場を建てればよいか」「ある国に、ファンドが入ってくればインフラが整備され、経済が発展する、その一方で、伝統的に住んでいる民族はその地を追われなければならないというモラルジレンマをあなたはどう考えるか」などが紹介されていました。
 そして、これもやりっ放しではなくて、同じような事例はないか、本来こうした問題(ゴミ問題)は、政治家が解決する問題ではないか、のような形でオチをつけているらしいです。



 新指導要領で共通して叫ばれている「言語活動」をその地理の先生は、「論争問題学習」に置き換えて、学期末のテストが終わって何もない時期にこうしたことをやったらどうか、と提案されていました。




 これこそ、自分が何年間もかけて追い求めようとしている「社会科」の授業だな、と感じました。
 その先生も、つまるところ「社会科」の目標は、社会参画(自分で考え、自分で選び、そして選挙で票を投じる)なのだから、この目標に沿って、授業をしていかなければならない、とおっしゃっていました。
 



 こういう先生は、「地理の」先生ではなく、間違いなく「社会科」の教師であると言えるなあ、と自分は思いました。
 かつて、附属中の地理がうまい先生が、「地理はよくも悪くも何でも屋」、また、初任者研修で日本史の指導教官から伝え聞いた話ですが、隣の地理分科会の先生が、「地理というのは、これさえ読めばよい、という本は一冊もない」ということを言われていたそうです。
 



 つまり、「地理学」としてはそれが足かせになるのでしょうが、「地理教育」にとってはそれがプラスに作用する、つまり、「社会科地理」、「地理教育の公民化」がいくらでも可能なんだな、特に地理Aという受験を意識しない教養科目では、それが強く求められているんだなあ、ということを感じました。
 昨日の地理の先生も、「まあ、1年生だし、何となく地理って楽しいな、って感じてもらえればそれでいいかな、って感じで授業しています」とおっしゃっていました。こんな授業されたら、多くの生徒がきっと「楽しい」と思うはずです。現に僕は、ものすごく「楽しかった」。




 だから僕は、今の勤務校で地理を持てていることがものすごく幸せだし、日本史必修化で、地理がなくなっちゃうのは嫌だなあ、と最近は感じています。
 僕は、地歴科の教師として生きていくなら、日本史よりは地理の方が向いているのかもしれないなあ、と感じました。同時に、初任者研修のあんな細々したことをいちいち気にする人たちだけが東京都にいるのではない、ということが分かっただけで、少し勇気がわいた研修でした。




 (追記)
 そういえば、僕がしこたま眠いと思った授業をした先生は、雑談した際に、かつて講師時代に地理も教えていたらしく、「受験地理って本当に覚えること多いんだよねえ」と言いながら、地理の細かな知識を説明していました。
 それは、地理を歴史と同一視しているから(つまり、地理も特産物を覚えるものだと思っているから)であって、少なくとも上の先生のように、一般性の抽出を意識すれば、地理は難しくないし、むしろ楽しいものだと思うのですが、いかがでしょう。
 まあ、しょうがないですよね。「受験」を意識して教えたらそうなりますから♪でも、受験の関係ない人にそんな教え方しても通用しないと、僕は思いますけどねえ・・・。
 今のは、その博識な初任者の先生へのひがみです(笑)。