青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

ねぶたについて考える2010

 ほぼ毎年やっている感じのコーナー。今年は、「ねぶた(ねぷた)は誰のためのもの」です。
 昨日は、母校の立佞武多運行がお休みだったので、立佞武多を観光客として見ました。
 相も変わらず、五所川原のやしども(ヤンキーたち)はすごいっすね。盛り上がり方が。
 これまで自分は、カラスハネトの一件もあったので、「不快だなあ」という思いを持ちながら、そのからきじだの、やしだのを見てきました。
 でも、一方で今年はこんな考えも持っていました。




 彼らは彼らなりに楽しんでいて、いいなあ



 と。



 そもそもねぶた(ねぷた)は誰のものなのでしょう?僕はそこから考える必要があるのではないかと思っています。
 この答えはいくつか存在するかと思いますが、大きくは2つあると思います。




 ひとつは「見てもらう人(観光客など)のため」です。これは、ねぶたを芸術にまで高めようとしているねぶた師、お客さんと一体になって盛り上がる囃子方(ハネトもかな)、そして観光業を営む方、市役所の観光課などのお役所さん、そんな立場の人たちが、こんな思いを抱いているかと思います。



 僕は、青森ねぶたについては組織ぐるみで「見てもらう人のため」にやっていると思います。年間300万を超える人たちが青森市にやってくるわけですから、お客さんに楽しんでもらおう、何ならハネト衣装を貸し出すから祭りを体験してみませんか、ねぶた師や運行団体も、団体によっては隊列や衣装を統一したり、見てもらう人のために趣向を凝らしたねぶたを作ったり。そして、その統一性を「ねぶた大賞」という賞レースの名のもとに審査する。


 そもそも青森ねぶたが観光化したのは1960年代に、秋田の竿灯、仙台の七夕と共に、「東北三大祭り」と観光業の人たちがパッケージ化をし、観光客を積極的に誘致しようという計画からスタートした、と言われている(詳しくは宮田登、阿南透らの研究を参照)のだから、無理もない事でしょう。青森ねぶたは、早い段階から「見てもらう人のため」にやらなきゃいけない状況になっていた、というわけです。




 でも、僕は青森ねぶたの運行を実は一生で2回しか見たことがありません。しかも最後に見たのは小学校4年生の時なので、かれこれ15年はねぶたを見ていません。




 それは青森市が遠い、住んでいるところがつがる市五所川原市に近い、ということもあるのでしょうが、それ以外にも、ここに住んでいるからこその理由があるのではないかと思います。




 そこでもうひとつの答えが出てくるわけです。何だと思います?



 当然、「自分たちのため」です。自分(たち)が楽しければそれでいい、という発想です。
 もともと「ねぶた(ねぷた)」は旧の七夕のねむり流しの一種で、農閑期の眠気を吹き飛ばし、そして秋に来る五穀豊穣を祈るために行われていた祭り。だからこそかつては灯籠のように、川にねぶたを流したし、津軽人は、この一瞬にすべてをぶつけている。
 つまるところ、民俗学のような立場に立てば、ねぶたは「自分たち(地縁集団)」の一致団結の手段であり、その集団の中で、個人が楽しむための手段であると言える。



 もちろん、こうやって書くと、じゃあ青森ねぶたをやっている人たちは、「自分たちのためにやっていないのか、そんなことはないぞ」という反論をしたくなる人もいるかと思います。



 確かに個を見ればそうかもしれません。でも、ハネトの際にはホイッスル禁止、飲んで参加することはあまり好ましくない、衣装も自由ではない、統一できていないと入れてくれない(東奥日報2010年8月6日付)、そんなルールが多い青森ねぶたは、全体から見れば、全く「自分たちのため」にやっているようには見えません。お客さんの安全のため、要はみっぱえ(見栄え)の問題でしかありません。




 自分が愛してやまないつがる市のねぶたは、町内レベルの祭りです。でも、そこにはルールというルールは存在しないように思えます。衣装は自由、酒は飲みまくる、その延長で町内同士で喧嘩することもしばしば。だからこそ囃子はテンポの速い喧嘩囃子。テンポが速いからこそ、「自分の実力をしらしめる」ことができる、それは人に見てもらうのではなく、自分との戦い…。




 僕はやしだのからきじだやつだのは好きではありませんが、でも、年に一度の祭りぐらいの時には騒がせてやってもいいのではないか、と思っています。幸い、五所川原立佞武多ではそういう人たちが、観光客相手に傷害事件のような事件を起こしたという事例は報告されていませんし、昨日見ている限りでは、彼らは彼らだけの世界観を作って、自分たちだけで悦にひたり、自分たちだけで楽しんでいるように思えます。



 13年目を迎えた五所川原立佞武多。やっぱり西北五のつながりなんだろうか、「観光客のため」よりは「自分たちが悦にひたるための手段」として祭りが定着しつつあるように感じた。それは個人としては大いに歓迎するところである。




 いろいろご意見はあるかと思いますが、ねぶたはまず「自分ありき」の祭りであるべきだし、「みっぱえ(見栄え・相手)のために排除する」祭りであるべきでない、と自分は思います。
 そんなことを考えつつ、今日も立佞武多の運行に参加します。