青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

法と教育学会@学習院大学参加記

 今日は、学習院大学で法と教育学会があったので、参加してきました。
 といっても、さすがに1週間のうちの唯一の休息日なので、午後のシンポジウムだけ参加してきました。
 テーマは「発達段階と法教育」、教育心理学の先生をお招きして、発達心理学の立場から見た子どもの法的推論について講演してもらった後に、パネリストが意見を述べ、その後討論、という感じでした。
 個人的には、講演があった後に、パネリストも資料を用意しながら、何か意見を言うのかな、と思ったのですが、それをしたのは古家先生(自分の基礎実習時代の指導教諭)だけで、他は「ただいるだけ」みたいな感じだったのは、何か残念でした。


 全体としては、教育心理学者とコラボするための話題提供に終止した感じだったので、社会科を教えている立場からしたら、少し物足りなかったです。来年に期待って感じです。



 話題提供以上にならなかったのは、これが明白な理論を持ち得ていないからでしょう。教育心理学も「社会的文脈」や「子どもの素朴理論」、「感情」など、とても科学で収斂できない部分まで、科学として理論化せざるを得ないところまで研究していかないといけない。これが、すっきりとした「答え」を出せない要因だと思います。



 古家先生が危惧して、「空中分解しないために」と言っていたのは、この部分ではないかな、と。



 それに関連して、個人的に考えさせられたのは、古家先生の、「スポーツのルール」を題材にした時は議論が白熱し、「派遣村」を題材にした時は議論が盛り上がらなかったという違いはなぜ起きたのか、という部分で、「子どもが経験していない」「見たり感じたりしていない」という、「経験」という側面が大きく関わっているのだという点でした。




 つまり、議論学習をさせる時、あるいは価値を問題にする時、いやが上にも、発言する人の「社会的文脈」や「経験」などがそこに含まれてしまうということです。




 僕は個人的には、これを出来る限りそぎ落として、すっきりした「答え」(授業でいえば「オチ」みたいなもの)を出したい人間なので、議論学習はいつも躊躇するんですよね。




 それに、こういう学習って、評価がしにくいんですよね。8月20日のゼミの卒業生研究会でも議論になりましたが、例えば「派遣村」の問題を扱って、「実際に炊き出しをして、その実態に触れた子ども」が書いた文章と、そうではない子どもの文章を比べた時、実態に触れた子どもの文章の評価を高いものとして設定してよいかどうか。
 これならまだしも、例えば社会問題を扱った時に、親がその問題の最中にいたりした時。子どもの経験からリアルに語られたものを、評価の対象にしてよいのかどうか。



 これは、「切実性」や「リアリティ」に関わる問題だと思います。もちろん、「切実性」や「リアリティ」のある問題を題材として扱い、かつそこから社会全体の問題が見えるものであれば、社会科としては、積極的に取り扱うべき問題でしょう。



 ただ僕個人の感覚だと、そこまで社会問題に自分が首をつっこむ勇気がない。



 それに、例え目の前にある問題であったとしても、「感情」や「経験」だけで議論をしないようにするための仕組みが必要でしょう。そのために、社会問題を題材にしたいのなら、子どもたちに議論させたい話題の基礎となる「理論」や「考え方」を教えることは必要不可欠だと思います。その上で、議論をしないといけないと思います。




 分かりやすく言えば、マイケル・サンデルをしたければ、池上彰のような授業を積み重ねなければいけないのです。





 閑話休題





 いずれにしても、法教育のような、いわゆる「価値」を扱うもの、「明確な答え」のないものを扱う時には、「文脈」や「経験」などが背後に含まれていることを自覚した上で、議論させていかなければならないということを感じました。
 だからこそ、こうした問題って、「目の前にいる子ども」をきちんと分析する能力が教師に問われるだろうし、その蓄積でしか「理論」になり得ないんだろうな、と思いましたね。




 いやはや、本当に古家先生はすごいな、と。自分は本当に社会科に関してはいい師匠に恵まれたなと思いました。