青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

地理歴史科の教育について

 長くなりますがご了承を。
 先月から、とある学会の勉強会に参加させていただいている。テーマとしては、歴史基礎・地理基礎とシティズンシップ教育との融合、そんな話だ。
 さすがに1回目は、お互いの言いたいことを言って終わった感があり、個人的には(僕も観客感覚なのでよくないのだが)、もっとこのテーマに即した話が出るのかな、と思っていたのでちょっと残念。

 それでこれがテーマになっていたので、少し調べてみた。
 この議論の土台は、2011年の日本学術会議での「歴史基礎」・「地理基礎」に関する提言から始まる。現行では地理歴史科は世界史が必修で、地理と日本史は選択になっている。ところが東京都に代表されるように、自治体レベルでは世界史だけでなく、日本史も必修化しようという動きが出てきており*1、そうなると地理の存在感がますますうすくなる。平たくいうと、地理歴史科で3科目中2科目必修という訳の分からない状況が起きており、そんなんだったら、世界史+日本史のようにそれを統合するような科目を作ったらどうか、それが「歴史基礎」であり、「地理基礎」である。



 それに基づき、日本橋女学館神戸大学の附属などが文科省の研究開発校に指定され、実践が行われている。日本橋女学館の取り組みの概略は、高校教育という雑誌の12月号に書かれているし、神戸大学付属の取り組みは、この間のニュースウォッチ9というテレビで紹介されているのだが、大まかにいうと、「議論型の学習」と「テーマ別の学習」という2つの側面をもっている。


 これまでの歴史教育はあの分厚い教科書を、「解説型の学習」で「最初から最後まで教える学習」という2つの側面で教えてきた。そのため、生徒は飽きてしまうし、そんなもの大学入試で使ったらきれいさっぱり忘れてしまうのである。最近でも自分の勤務校の国語の先生が、大阪に生徒の発表会を見に行くための新幹線で、たまたま隣に座った外国人に、「明治維新はどういう英訳にしたらよいか」、「幕末に明治維新を実現できたのはなぜか」という話を延々されて困ってしまったという話を聞いたが、そんなもんである。
 


 つまり、知識1つ1つに意味などはなく、そうした知識を組み合わせ、自分で歴史を探求することが今、求められているようで、研究開発校ではそういうことをしている(らしい)。教科書や資料集はあくまで「資料」であり、そこに確固たる答えがあるわけではない。ニュースウォッチ9で紹介されていたのは、アヘン戦争についてで、中国(清)とイギリスの立場をそれぞれ分析し、なぜアヘン戦争が起きたのか、それは歴史的にどのように評価すればよいのか、を生徒自身が分析するというものである*2
 おそらく、イギリス・インド・清の三角貿易の話と、アヘンの特徴、そしてイギリスの議会でこれがわずか数票差の賛成をもって決行されたことなどがキーワードとなると思う。




 で、これを見て今の教師がこれを教えられるか、やれるか、っていう問題(教員養成の問題)はあるのだが、それは今回はあまり触れないでおきます。




 とにかく、次回の学習指導要領では、特に高等学校での教育改革がメインテーマとなっていて、センター試験を廃止し、人物重視・経験重視、1点刻みの学力試験・評価方法をなくしていく方針になりつつあります。
 そうなってくると、歴史学習は、それこそ「墾田永年私財法」という単語を覚えるのではなく、上に挙げたような議論をさせていくような学習が推奨されてくることが予想されるわけです。
 だからいわゆる「歴史基礎」・「地理基礎」の議論は、これからの教育を考えていく上でとても重要なことだと思います。




 が、





 現行の地理歴史科における「地理基礎」・「歴史基礎」の議論は、明らかに地理学と歴史学を前提のものとして議論している節があります。それは決して悪いことではないのですが、果たしてそれが生徒を育てる「目的」たりうるのかは疑問です。
 とりわけ歴史学は、史料に基づき、歴史の「真実」を追及するという考え方をもっています。これが歴史学の「学」たりうる特徴です。しかし、それが果たしてどこまで生徒にとって学ぶ「意義」たりうるのか、「目的」たりうるのか、と言われれば、ちょっと「?」マークだと思います。




 やはり市民的(公民的)資質の育成ということを考える上では、地歴科としてではなく、「社会科」としての議論が必要不可欠でしょう。先に挙げたアヘン戦争の事例も、歴史学を前提としてしまえば、そこに書かれているからで終わりであり、ああ、今日も議論しましたね、満足、満足、といった方法主義に陥りかねません。自分が修士論文で伝えたかったことはそんなのではなく、「三角貿易」という経済的事象が何を意味するのか、通常の貿易と何が違い、それはどんなメリットとデメリットを生むのか、そして、イギリス議会ではアヘン戦争に反対するものを多かった、にも関わらず数票差で賛成だったから、それがさもすべてであるかのように戦争に突き進む、つまり、民主主義における多数決の原理って本当に万能なのか、数を占めればそれでよいのか、などのいわゆる「政治的」「経済的」な視点が必要不可欠であり、そっちを歴史でも考える方が、自分は社会科として「よりマシ」だと思っているわけです。





 もちろん、これについても、いきなりこれをやれ、というのは土台無理な話です。それは自分が修士論文を書いた時に痛いほど感じたので。でも、年間で時間をかけて、それこそ年間の学習指導要領の中で、通史学習の中で、そうした「政治」や「経済」にかかわる話を少しずつ入れていけば、全員が全員、そうなるわけではないけど、社会を分析する人間が出てきて、「よりマシ」な社会を作るにはどうしたらいいかを考える人間が、多く出てくるのではないのかなと思います。




 今の歴史教育や地理教育では、歴史や地理は単なる「教養」の域を出ません。今の勤務校にいて思うことは、彼らは「教養」という人生にとって無駄なものを覚えようとはしません。マジで。そうではなく、教養を超えた、意味や意義のあるものに歴史教育や地理教育をしていかなくてはならないでしょう。



 というか、地理ほど現代社会とリンクする科目はありません。これは歴史以上です。個人的には、うちの学校は日本史をやめて地理にしてほしいぐらい、個人的には地歴科の中では地理に魅力を感じています。それこそ池上彰の番組が面白いところは、現代社会の事象を、世界では、あるいは歴史的には、と客観的に分析しようとするところにあります。この間の12月30日のやつも、号泣会見から歴史的な会見にはこんなものがあった、とかね。社会科って、そういう感じで縦横無尽にかけめぐることこそが魅力だと自分は思っています。




 話をもとに戻します。



 
 おそらく、この勉強会のオチは、歴史基礎や地理基礎は大いに歓迎だが、歴史学教育や地理学教育になってはいけない。そうではなく、good citizen(善良な市民)を育成するためには、という目標論をもって、歴史や地理も見ていかなくてはならない、という話になるんだと思います。
 が、これって意外と難しい。特に今の一問一答の正解ありきの学力試験が大目標に来ているうちは、教師のニーズは、歴史学や地理学の知識をいかに正しく教えるか、ということになるから。
 ってことは、評価方法を見直し、たとえば論述試験やレポートなどで評価するという方法にした方が、よりauthentic(真正)なものになりうると思うのですが、これもまた難しい。
 でも、やるしかないよね。そんなわけで、次の勉強会までには自分も何か持っていこうと思います。



 

*1:ちなみに自分の勤務校は、当時日本史はなかった。今はやってるけどね。

*2:ちなみに自分の修士論文は、ここをテーマに附属の中学校で実践したものだった。懐かしいなあ。