青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

ルールって何のためにあるの?

 学校のプライバシーをつまびらかにしない範囲で、今思っていることを書きます。
 最近、うちの学校では、どうもルールを厳格化しようという動きがあります。
 僕が今週の水曜日に、テストだからと休んでいた間にいろいろと、職員間での合意がなされていたみたいです。
 それで次の日の木曜日に、早速その第一弾として、6月以来やっていなかった、ステッカーを貼っていない自転車をロープで施錠し、自転車を出せなくする作戦が決行されました。
 予告もなしにやったもんだから、出るわ出るわの40台近く。うちの学校の生徒って、本当に阿呆だよね。
 しかも、その日にそのロープを切って、帰ってしまうという事件まで起きちゃうんだからさあ、大変。
 そんなこんなで先週はてんやわんやしていました。




 ただ、僕個人としては、上の自転車の指導方針にはいくつかの疑問がある、というか、頭の悪い方法だと考えています。
 一点目は、突発的に行っていることです。
 これは、生徒指導を考えれば至極当たり前のことだと思う人もいるかもしれませんが、僕は、この指導方針は、生徒を奴隷としか見ていない、教師が偉くて、生徒が無知だ、ということを自覚させる指導でしかないのかな、と思っています。
 もっと生徒にも合意をとりながらやるべきではないか、と。
 二点目は、教員間での合意が図られていないこと。
 現に僕は知らなかったし。それに、どう指導するのかも議論しないまま、見切り発車でやっている。木曜日は、捕まえた自転車を二度と乗せてこないようにするのか、それとも、ステッカーを貼らせる指導をするのか、で対応にすったもんだがありましたし。




 そんなんで、きちんとした生徒指導ができるのかよ、って2年目ですが、目を疑いたくなります。





 どうも学校のてっぺんが考えていることは、上からのルールの押し付けにしか見えない。それでは生徒が反発するのは目に見えているはず。
 確かに、授業が成立していないクラスがある現状の中で、「大人をなめるな!」という勢いよろしく、ルールで生徒を縛り、教師が毅然とした態度をとるのは必要なこと。それで生徒に嫌われたり、反感を買うことだって時には必要でしょう。




 ただ僕は、去年のうちの学校を知っているから、去年の自分たちで何でもやる「自主自律」の姿勢を見ているから、それでいいの?と疑問を持ってしまう。うちの学校は、生徒たちが学校のことをきちんと考えていたからこそ、「いい学校」だったはず。



 であれば、諸悪の根源は、その生徒の活力を引き出せていない我々教職員にあるのでは…?
 でも、もっと大元をたどれば、やっぱり社会に原因があるのでは…?




 近年は、法化社会の到来、企業だけでなく学校にもコンプライアンスアカウンタビリティが求められる時代。こうした企業論理や行政の都合が教育に介入しているからこそ、教師は疲弊し、生徒は教育されないままに、高校生にまでなっているわけで。
 それを我々は東京都の下僕であると言わんばかりに、生徒に同じようなことをしていいのか、もっと生徒の話、生徒の自主性、そういうものを尊重してやれないかな、と僕は思うんだけど。




 生きにくい世の中、生きにくい学校だから、ルールで縛る、でもそれは、生徒をさらに生きにくくさせている。このスパイラルに、大人も子どもも気づくべきです。




 僕は、うちの学校の生徒は、無知で無責任で、何でも他人任せなところがあるけど、でも、素直な心の持ち主ばっかりだから、きっかけさえ与えれば、生徒同士がきちんと学校のことについて考え、自分たちでルールを作り、自分たちで決められる、そんなクラス、学校になると思うんだけどな。




 まあでも、いいや。こういう感覚って、大人でも理解できない人はとことん理解できないから。説明するだけ無駄だし。僕も傷つきたくないし。
 だからみなさん、僕は「口先ばかりの人間です」。だけど、今の職場には僕と波長の合う先生が少ないのです。だから、行動に移せないのもまた事実です。う〜ん、ジレンマ。
 ま、死なない程度に頑張ります。文化祭も近いし。僕は、生徒が妥協の文化祭でいいなら、それはそれで妥協しますし。