青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

書評「Doing History:歴史で私たちは何ができるか?」

 

 

歴史総合パートナーズ9 Doing History:歴史で私たちは何ができるか?
 

 

 

 バートン、レヴスティック著『コモングッドのための歴史教育』、ワインバーグ著『歴史的思考』を翻訳している著者の、これからの歴史教育を考えるための一冊。

 自分が読んだ限りで、この本の主張を要約すれば、「歴史学者が行う思考「のみ」に固執せず、一般の人たちが行う歴史的思考にもアプローチしながら、歴史を学ばせることが大切」ということになるかと思います。

 

 一般に「歴史離れ」が進むと言われていますが、著者はその考え方に異議を唱えます。

 

私たち一般の人々の多くは、歴史が嫌いでもなければ、歴史離れをしているわけでもありません。ただ、歴史学者の研究の大半に興味がないだけであり、歴史学を専門に学んだ人たちから成る(特に高校の)教師集団の教える歴史が大抵の場合好きではないだけなのです。

 (pp.9-10)

 

 

 さらに、小学校や中学校では、歴史に興味のある人が多いのに、高等学校になるとその割合が下がっていく理由を、レイブとヴェンガーが主張する「正統的周辺参加」の考え方を援用し、生徒が「学ぶ意味」を感じていないことに起因するのではないかと述べます。

 

 なぜ、そうなってしまうのか。それは一言でいえば、歴史学者(及びその思考を大切にする歴史教師)が大切にしてきた、「実証主義」的な歴史に固執するあまり、歴史学で得た知識を「正しく伝えよう」とすることにある、と指摘します。しかしそれは、歴史学の権威を生徒に「押しつけ」ていることになる。ここに、「歴史離れ」の原因があるのではないかと指摘します。

 

 その上で、近年注目されている構成主義的な歴史学習について触れます。ここでは、学習指導要領でも話題となっている「歴史的思考」について考えています。その思考とは、

 

 ① 史料の厳密な読解と出典の確認

 ② 論拠や根拠のある歴史的推論

 ③ 歴史的文脈への配慮

 ④ 年代順の思考

 

 の4つに大別されるでしょう。しかし、歴史学的な思考のある教師の場合、主に①や②に歴史学的な思考を持ち込み、授業を「構成主義」と称して行うことになるでしょう。すなわち、「その史料は本当に正確な史料なのか」、「生徒が主張する歴史的推論は、一次史料に基づいた信ぴょう性のあるものなのか」、ということです。この思考自体は決して悪いことではないのですが、やはり生徒の「学ぶ意味」や「受け止め方」をふまえると、これを絶対視することは歴史離れの要因になってしまうことを指摘します。

 その上で考えなければならないのが、③の歴史的文脈です。これはバートンとレヴィスティックの研究を引用して次のようにまとめている。

 

 バートンらの主張は、要するに今日の民主主義社会に生きる私たちにとって必要なことは、出来事の原因や行為や判断の動機がどうであったのかよりも、それがもたらした結果がどうであるのかを直視して、相手も納得できる改善策を考えることの重要性を訴えるものです。…(中略)…歴史に責任を持てる人間とは、過去の出来事の原因や背景にあるその時の動機や価値観よりも、現在の結果をより重視する人ではないでしょうか。(pp.57-58)

 

 著者は高校での歴史教育を改善するためには、こうした現代社会を正しく認識・判断するために歴史を手段として学ぶ、いわゆる「実用主義」に基づく歴史授業が必要であることを指摘し、以下の事例を挙げています。

 

 ① 来歴を知る

ブラタモリのような地名の由来ではなく、社会問題に由来するもの、例えば「土俵が女人禁制なのは、本当に昔からの伝統なのか」「広島の人はどうしてカープが好きなのか」など。教材化を目指すなら、「伝統って本当に昔からあるものなの?」という視点で見ていくとよい。)

 ② 教訓を得る

(例えば、安倍晋三政権下の日本社会を分析するために、1930年代の日本社会を分析すること、日米安保条約を考えるために、1920~30年代の東アジア情勢を分析すること、などといった視点)

 ③ 人に歴史を伝える

(例えば、博物館や資料館の展示に関する論争問題を考えたうえで、歴史の公開展示や社会的意義や生じうる問題について考える。そのうえで、博物館と連携しながら授業をしていくといった視点)

 ④ 「たら・れば」を考える

(例えば、厩戸王の外交は本当に成功だったのだろうか。元寇の際の北条時宗の外交はどうか、など。この辺りは外交史の立場で考えると、様々な視点で考えられると思う。)

(ちなみに、ポパーの「学校の教えている歴史は、現在の私たちから見ればほとんどが犯罪者たちの犯罪行為の集合である」という部分を引用しているが、これはまさに的を得て いると思う。そういう意味で、最近筆者は本当に「平和な」時代は教科書に載っていない時期なのではないか、と考えている。その意味で、自分は徳川家斉の時代って平和だったのではないか、と生徒に冗談めいて言っている。)

 ⑤ 歴史を乗り越える

(いわゆる「メタ・ヒストリー」。ただし、「田沼時代を「改革」と呼ばないのはなぜか?」のようなマニア向けのものではなく、例えば、19世紀から20世紀の韓国の関係を考える(植民地支配に対する韓国側の謝罪要求、靖国参拝をめぐる問題、従軍慰安婦問題など)など、実際に現在でも認識の相違がみられる問題を考えることがよい。)

 

 

 最後に著者は次のようにまとめます。

 

 「Doing History(歴史する)」が、単に歴史学者のまねごとをすることではなく、社会生活をより良くするために、そして民主主義社会をより進展させていくために、一般の人々が歴史を賢く使っていくことである…(中略)…こうした目的を達成するためには、歴史学者の大切にする歴史的思考であっても、その使い方次第で社会的貢献と抑制のそれぞれの作用があること、そして歴史学者が大切にしていない思考でも民主主義社会の形成に寄与する要素があることを、一般の人々が理解していく必要があり、学校教育はそのことを歴史授業で伝えていかなければならない、と筆者は考えます。 (pp.104)

 

 

 自分の来歴をふまえて思うことを書いていきます。

 

 著者の言う、「Doing History」は、まさに汎用性が高く、「民主主義社会の形成者」としての歴史学習を行わなければならない点は自分も同じく考えます。だからこそ、自分の興味・関心は「生徒にとって「意味のある」歴史学習とは何か」にあります。

 ただし、自分自身が「歴史を知識として学ぶことを楽しい=意味のあること」と考えていること、そして少しではあるが、歴史学をかじっていること、そして、現任校の生徒が「受験」を意識していること、の3点において、歴史的文脈をふまえた授業への躊躇があります。その意味では、自分自身が知らず知らずのうちに、「実証主義」的な歴史学習の固執し、「実証主義」(というか、「教科書」)の範疇の中で、授業をしていることを強く感じます。

 最近、生徒がいよいよ進路のことを考え始め、模擬試験も日本史が始まったことから、「〇〇大学に出題するから教えなきゃ」という思考が出てきて、ある意味、自分の理想とする授業の邪魔をしています。(とはいえ、難関校の入試は、間接的に「現代社会の分析や来歴」を意識した問題を出しているし、むしろ授業化するにあたっての視点も提供してくれているから、全く否定はしていない。)

 だからといって、受験を意識しないところで、いわゆる偏差値の低い学校で、浅い教材研究のままこうした授業をすると、そっちの方が生徒にとって危険だったりする。

 

 だから自分は、「生徒にとって学ぶ意味のある歴史授業とは何か」を常に考えながら授業をしている。でも、その「姿勢」が歴史学習にとって一番大切なのかな、と考えている。

 

 アメリカの歴史教育の考え方を、平易な文章で、豊富な例示をもとに説明しているので、自分の授業を客体化する上では、おすすめの一冊です。