青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

歴史教育を考える2022

 毎年、年始に書いている今年の授業の指針。今年は指導要領が変わり、いよいよ歴史総合が始まるという記念すべき年になります。個人的には歴史総合を受け持ちたいのですが、果たして受け持てるのでしょうか・・・。

 

 歴史総合を考える時には、すべての歴史事象をやることは難しいので、大まかに年間指導計画や単元を、教師の側がデザインしていく必要があります。

 

 その際の指針を示しているのが学習指導要領です。例えば、歴史総合では「近代化」「国際秩序の変化や大衆化」「グローバル化」という大きな概念があり、それを授業では考えさせていくことになります。

 

 この他にも、「帝国主義」や「産業革命」など、歴史を叙述するために必要な概念をつかませながら、それを具体的事例に落とし込み、生徒にそれを考えさせたり記述させたりする活動が求められると思います。

 

 なので、年間指導計画や単元をデザインする時には、例えば、クラスごとに定期考査までの時間数を数え、その時間に合わせて、どこまで進めるかを決め、どんな概念を生徒に考えさせるか、ということが求められてくると思います。

 

 

 その時に、自分が注目している問いが「何」(What)という問いになります。歴史総合の授業とは、究極的には生徒に「近代化」「国際秩序の変化や大衆化」「グローバル化」とは「何か」を史資料を通して考えさせたり、記述させたりする活動だと自分は考えています。

 

 その上で、例えば「産業革命が近代化に与えた影響は何か」「国民国家の形成が近代化に与えた影響は何か」、こんな問いを生徒に示していくことになるのだと思います。(もちろん、基礎知識が備わっていればこの問いをそのまま、そうでなければ、具体的な事例に落とし込んで考えさせることになります)

 

 そうした意味で現在、「何」問いを考えることが、歴史学習にとっては重要だと思っています。「何」問いの特徴については、宗實直樹先生が『社会科新発問パターン集』の中で、このような効果があると指摘しています。

 

 ① ある事象について多面的に考えることができる

 ② ある事象について総合的に考えることができる

 ③ ある事象の本質について考えることができる

 ④ 導入で問うことで、その説明に対する事実を調べることを促すことができる

 

 もちろん、「何」問いには、単に事実的知識を問うているものもあります。例えば、「青森県で栽培が盛んな果物は何ですか」→「りんごです」のような問いです。岩田一彦先生の本でも、「何」問いは事実的知識を問うものだと位置づけられています。

 しかしここでいう「何」問いは、総合的事象を含んだ「何」になります。先に挙げた「近代化とは何か」は、これに該当します。例えば、「明治時代に日本が近代化を果たした要因は何か」と問えば、そこには政治的要因、経済的要因、外交的要因、文化的要因など、様々な事象が総合的に混ざり合っています。生徒は、そうした複数ある要因の中から、自分が重要だと考える要因を選び、それを記述します。そうすることで、「問い」としては一定の基準の中で回答することが可能となり、また、生徒それぞれで重要だと考える要因が異なるので、そこに解釈の多様性が生まれ、そこに議論の可能性が生まれます。

 このように「何」問いは、これからの歴史学習を考える際には有用だと言えるでしょう。

 

 

 しかし、「何」問いについては、森分孝治氏の批判を踏まえなければならないと思います。(ちなみに以下の本を参考にしています)

 

 

 森分孝治氏によれば、「何」説明が「説明」となるのは、例えば絶対王政とは何かの定義があり、定義の内容、すなわち、絶対王政の特徴・性格が示す事実がエリザベス時代のイギリスの歴史に見られることを指摘することにあると述べる。こうした既知の概念によって規定された説明を森分氏は「規定による説明」と呼ぶ。この説明は、内容豊かな概念による規定ほど、すなわち、より詳しく複雑な知識体系による限定ほど、より科学的となる。

 しかし、教科書に示されている事象(例えば「絶対王政」などの単語)は、概念の内容(理論)を明示せずに、その言葉を規定しているため、「説明的スケッチ」(不完全な推論・説明)となっている場合が多い。

 

 そのため「何」説明を扱った授業は、複雑な知識体系を知っていれば知っているほど、内容や説明は豊かになっていくが、そうでない場合(「説明的スケッチ」にとどまっている場合)には、授業自体が成り立っていかない可能性を示唆しているのである。つまり、「何」説明の場合は、知っている生徒同士だとよいが、そうでない場合は、何を議論してよいのか分からなくなってしまう、ということである。

 

 また、森分氏はこの著書の中で、深谷孟延氏の中学校歴史的分野「フランス革命明治維新」の授業を用いて説明している。この授業では、フランス革命明治維新を事例として比較したうえで、「明治維新は革命か」を生徒に討論させた授業である。 

 しかし、この授業では生徒は様々な調べ活動を経て、生徒なりに「明治維新は革命か否か」を考え、自分なりの「革命」の説明を試みている。しかし、この授業では基本的な条件や事実についての共通理解なしに討論されおり、「意見」の出し合いで終わってしまっていることを指摘している。

 

 つまり、「何」説明を扱った授業は、ともすると

 ① その概念に対する知識や説明が不完全な場合には、生徒が説明をすることが困難になってしまう可能性

 ② 解釈は多様になるが、意見の出し合いで終わってしまう可能性

 

 を示唆しているのである。

 

 

 とはいえ、歴史解釈を多様にし、かつ知識を組み合わせて総合的に考察させることができるメリットのある「問い」であることに間違いはない。では、どうしたらよいか。個人的には

 

 ① 歴史学や歴史事象に対する説明を豊かにするのではなく、社会の見方・考え方を踏まえた概念的知識を意識づけるようにする。

 ② 「なぜ」問いの言い換え*1としての「何」を活用する。具体的には、「条件は何か」「影響は何か」など。

 

 が重要だと考えています。

 

 

 現在は、こうしたことを踏まえながら、通史や教科書という時系列的な制約の中で、社会の見方・考え方を活用した歴史授業を構想しています。

 

 

 

 今年は、生徒が歴史の授業を通して、どうそれを意味づけたのか、それを追っていく授業ができる1年にしたいと思います。

 ちなみに、授業ごとや単元ごとに生徒に感想を書かせるだけでも、生徒がどう意味づけたかが分かるし、それで「うまくいったな」とか、「ここは改善した方が良いな」が分かるので、おすすめです。

 

*1:詳細は、森才三「社会科授業における「なぜ」発問の実践方略 : 「問いの対象」と「問いの観点」に注目して」(『社会科研究』82号)参照