青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

社会科教育を考える2021(主体的に学ぶとは?)

 

 毎年、この時期だからこそ文章化できている、社会科教育(歴史教育)に関する私見。ただし、自分の勤務校に馴染めば馴染むほど、社会科教育を忘れてしまいがちになってしまいます。

 

 

 そんなわけで、2021年に個人的に思っていることをつらつらと書いていきたいと思います。

 

 

 いよいよ2021年から中学校が新しい学習指導要領になります。今回の学習指導要領の大きなポイントは、評価がすべての科目で統一されたことにあります。

 その観点とは、「知識・技能」、「思考力・判断力・表現力」、「学びに向かう力・人間性」の3観点となります。

 

 

 その中でも特に注目しなければならないのが、「学びに向かう力・人間性」の項目。自分の勝手なイメージだと、それまでの「関心・意欲・態度」と異なる点は、今改訂で謳っている「実社会に役立つ力」「学ぶ意味・意義」というところにまで切り込んで評価をする、ということになるかと思います。

 

 

 ただし、そこまでいち教師が、いち教科の立場でどれだけ評価ができるのか、それは大いに疑問がある。

 いやいや、そこはカリキュラムマネジメントなんだから、学校全体でやるべきでしょ。

 でも、それって誰が音頭をとるの?

 そのために会議やるの?業務1つ増えてない?

 そんなことをついつい思ってしまう。

 

 

 そこでポイントになるのが「主体性」の問題だと思う。これについては、溝上慎一氏の分析((理論)主体的な学習とは-そもそも論から「主体的・対話的で深い学び」まで- (smizok.net))が一番分かりやすいので、これを分析枠に考えてみたいと思う。

 溝上氏は、主体的な学習を、「行為者(主体)が課題(客体)にすすんで働きかけて取り組まれる学習」と定義づけた上で、その学びは次の3つから構成されると言っている。

 

 ① 課題依存型

 ② 自己調整型

 ③ 人生型

 

 課題依存型とは、「「この課題に取り組むのはおもしろい」といった例に見られるように、行為者の課題への働きかけの力点が、行為者よりも課題のほうにあるような学習」を指す。いわゆる教材研究に基づき、生徒に「問い」を投げかけ、ともに探求(探究)しながら考えていくなど、一般的な教科の授業はここにあたる。ただし、この課題依存型は、課題を教師側が提示しているという点で、受動的であるという課題がある。

 自己調整型とは、「学習目標や学習方略、メタ認知を用いて、自身(自己)を方向づけたり調整したりして課題に取り組む学習」を指す。これまで学習したことを「活用する」という類は、ここに含まれるかと思う。また、「大学受験」や「試験勉強」、「まとめ課題」などはこうした学習を行うための手段となり得るかと思う。

 人生型とは、「中長期的な目標達成やアイデンティティ形成、ウェルビーイング(幸福感)を目指して課題に取り組む学習」を指している。「なぜ学ぶのか、学習を通してどのような自分になりたいのか、といった学習の意味が、自身(自己)の過去や未来の事象に関連づけて作り出され(時間的展望)、それが今ここ(here and now)の時間空間的な意味ともなって学習に反映される」という。何のためにこの教科を学ぶのか、という発想はここからきているだろう。

 

 

 溝上氏の視点を用いれば、新学習指導要領の「主体的な学び」(学びに向かう力・人間性)は、この①~③のすべての領域を含んだもの、もっと言えば、③を軸にして、①・②を行うべき、という指導要領だ、ととらえることができるだろう。

 

 

 

 なるほど、この改革は間違ってはいないと思う。特に子どもたちには「何のためにこの学習をするのか」という視点を提示することは絶対に重要だと思う。現に自分も、最近は「なぜ、日本史を学ぶのか。学ぶとすれば、どんな授業がよいのか」について意識しながら授業をしている。

 

 

 しかし、ここで気を付けなければならないことがある。それは、③を意識されすぎることで、①が軽視されてしまわないか、ということである。

 近年のアクティブラーニングや、主体的・対話的で深い学びによく見られるのが、既存の学習事象を前提として、生徒に「いかに話し合いをさせるか」、「話し合いの技法」、「話し合いの中で他者を認め合う力」を育成されるという授業である。

 それ自体、大いに結構なことであるし、生徒の将来を考えれば、先の見えない時代に他者と共同しながら何かを創り上げる活動は非常に重要である。

 しかし、それなら別に歴史でやる必要はない。むしろ歴史でやる必要がどこにあるのだろうか。古代社会や中世社会は、現代社会との類似性よりも相違性の方が強調される。相違性を学ぶよりは、もっと公民系の科目を学習して、生きて働く社会の仕組みを理解させた方がよっぽどマシである。

さらに、本当に主体性を認めるなら、それに参加しないという「主体性」も保障すべきであろう。結局、教科枠を設定している以上、完全なる「主体性」は担保できない。

 

 

 じゃあ、どうしたらよいのか。かつて自分自身の修士論文のテーマがこれだった。自分の修士論文(2009年執筆)の主発問(MQ)は、「子どもが歴史を科学的かつ主体的に解釈できるようになるにはどうしたらよいか」という壮大なテーマに取り組んでいた。

 

 

 その時に、自分が解決方法として提案していたのが、「社会科学の分析視点に基づく探求学習を繰り返し実施していくことで、社会の見方・考え方を獲得させていくこと」だった。そのために、先行研究として児玉康弘氏、加藤公明氏の授業を分析し、森分孝治氏の「知識の構造図」と、「なぜ(Why)」に基づく問いが重要であると指摘。その上で、附属中で検証実践を行った…そんな内容だった。*1

 

 

 つまるところ、教科枠が残っている以上は、①をベースにして「主体性」を考えるべきだ、というのが自分の主張である。

 

 

 だから昨年度、自分は敢えて「エセ探求主義」*2の授業を公開した。導入から「主発問」(MQ)を投げかけ、生徒にあれこれ考えさせ、生徒とやり取りをしながら、答え(MA)にたどりついていく。授業終了後、自分が地理の授業で面白い先生だなあ、と思っていた先生からはお褒めの言葉をいただいた。結局、社会科教師のウデはそこにあるべきだと思っている。

 

 

 とはいえ、②や③を軽視しているわけではない。むしろ②や③が大切なのは重々承知している。ただ、②や③は、副次的であるべきだし、そこは子どもに「開かれる」べきであると自分は考えている。社会科という科目を通して、「問い」や「課題」を投げかけ、それを繰り返し実践することによって、自分でできるように支援していく。そして、自己の進路実現に必要であると考えれば利用すればよいし、利用しないのであれば(言葉は悪いが)「付き合って」くれればよい、自分はそう考えている。そして、教える側は特に学校の文脈と、生徒のニーズに合わせて、③を意識しながら、①・②をどうするか、を設定する。これこそが、社会科におけるカリキュラムマネジメントであると思う。

*3

 

 

 だからこそ、今回の改訂を通して、かつて多くの教師が行っていた、「ネタ的」授業や、その授業のシェアが少しでも広まっていくといいな、と考えている。①発信の授業が土台にあるからこそ、②や③へと発展していく。そこを忘れてはならないと思う。

 

*1:ちなみに、これ以外に、イギリスのナショナルカリキュラムと、アメリカのフェントンのカリキュラムも分析したが、それは指導教官から削除を求められたので、削除した

*2:基本的には森分孝治氏の探求主義に基づいているものの、森分氏は、既存の認識(素朴概念)へ疑問を投げかけ、新たな視点を「問い」かけて提示することによって、その認識をより科学的に変化させていくことに特徴がある。ただし、自分はそこまでは求めていない。教科書にある知識・認識を「答え」として、生徒の素朴概念を意識しながら、「なぜ」と言いながら、「答え」へたどり着いていく。それは森分氏のものと似て非なるものなので、自分が勝手にこう呼んでいる。エセ探求主義の問題点は、渡部・井手口(2020)を参照

*3: 今回の改訂は、特に社会科については「知識の網羅的な伝達」「受験指導のため」といって、③の部分に無自覚的であることへのある意味での批判でもあると思う