青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

歴史総合を考える(夏期講座での取り組みを通して)

 昨年度から、職員室で社会科の先生がしている雑談(歴史に関すること)を生徒にも公開しよう、をテーマに夏期講座を開講している。

 昨年度は、自分が語り手となり、国語の先生(といっても、ディベートに熱心で社会情勢にも詳しい先生)が司会者となって行った。

 

 

 今年はそれを世界史にも開こうと、昨年度からいる同年代の世界史の先生も誘って、3人で行うことにした。

 というのも、これから始まる歴史総合は、世界史・日本史の枠にとらわれず、広く「歴史」を見ていく科目となる。そうはいっても、戦前以来の「西洋史」「東洋史」「日本史」と別れている現状から、教員の側も歴史に詳しい先生は、世界史あるいは日本史のどちらかの視点に偏って語りがちである。

 とりわけ自分は、世界史未履修事件のあおりを受けている人間なので、世界史のことはほとんど知らない。また、現在の学校では「日本史」を担当している関係上、日本史については細かく知っているのだが、世界史については門外漢である。

 

 

 一方で、世界史の有用性をつとに感じている昨今である。世界史はローカルにすればするほど、各国史は際限がないため、「広い視野」でとらえることになる。また、「タテ」と「ヨコ」の関係性をかなり重視する。そして、国際的な視野でとらえるため、物事を大局的に見やすい。

 

 

 一方の日本史は、せいぜい出てきても東アジアとの関連だけであり、高等学校になればなるほど事象は細かくなっていく。もちろん、「なぜ日本が戦争へと向かったのか」など、EQ(本質的な問い)を重視した問いを立てることも可能なのだが、どうしてもガラパゴス感が否めない。

 それに、日本史だけで物事をみていると、どうしても見方が狭小になってしまう。個人的には、ちょうどそれは陸軍(日本史)と海軍(世界史)の対立を見ているようである。そして、多くの生徒はどちらかといえば日本史を選ぶ。そうなってしまうと、日本史を教えることで、逆に日本型社会の形成を助長してしまうのではないか、という個人的な危機感がある。

 

 

 

 そんなこんなで今年は、世界史と日本史の先生が、それぞれの視点から事象を説明することで、歴史を多面的に見てみよう・・・そんな目的で講習を行った。

 さらにこのご時世なので、できるだけ家で見てもらおう、ということで、特別な事情のある生徒を除いて、teamsのストリーミング配信機能を利用したオンラインでの講習を行いました。

 

 

 主な内容として、

 初日は、COVID-19の問題があったので、「感染症の歴史」をテーマにしました。感染症の問題は、日本史というよりは世界のグローバル的な流れの中で、日本に入ってきたものが多いので、まずは日本の歴史を話したうえで、世界史の視点から話をしてもらいました。とはいえ、世界史の先生の側からは、世界史的にみれば「病気を治す」という考え方そのものが、20世紀に医療技術が発展してからのものであり、それ以前は、病気は治すという考え方ではない。治すというよりは、政策として公衆衛生を充実させ、病気を予防したり拡大を防ぐ方策がとられてきた、という考え方を知り、なるほどな、と感じました。

 そのため、日本史の側からも、長与専斎という、明治時代に公衆衛生という概念を定着させた人物を紹介しました。折しも、今年の東京外国語大学の問題が、「江戸から明治にかけて、感染症の考え方はどのように変化してきたのか。資料に基づいて100字以内で論述しなさい」という、キセキのような問題があるので、ぜひ見てみてほしいです。

 この他にも、「病は気から」ということで、宗教とのつながりで話もしました。

 生徒の質問で、「梅毒」に関する話題も取り上げられたので、そこから「女性」の問題、「ハンセン病」などの「差別」の問題についての話題も取り上げました。本当は、そこから従軍慰安婦の問題や、上智大学2016年TEAP入試で取り上げられているような、「娼婦=けがらわしい」という概念は、近代になって取り入れられた概念なんだ、という話までいきたかったですが、中学生も対象だったので取り上げませんでした。それでも世界史の視点からは「梅毒」による「社会的差別」の問題は取り上げていたので、ある程度は触れられたのかなと思っています。

 最終的には、女性の話になったので、「戦争は女の顔をしていない」のマンガも紹介して1日目が終わりました。

 

 

 

 

 

 2日目は、「1つの事象を日本史と世界史で見てみよう」をテーマにしました。具体的には、江戸時代の鎖国の頃の歴史(なぜ、江戸幕府はヨーロッパの中でオランダだけを貿易相手国に選んだのか)と室町時代の歴史(なぜ、足利義満金閣を建てたのか、金閣に込められた意図は何か=日明貿易について)と鎌倉時代の歴史(元寇の背景)の話をしました。

 世界史でも、この時代の歴史、例えば江戸時代の頃のオランダの様子、それまでのポルトガル、スペイン、イギリスとの覇権争いの中で、オランダが力をつけることができた理由、宗教改革の話題、室町時代でいえば鄭和について、鎌倉時代でいえば元のハン国の話題や、西アジアイスラームの話題などをしました。

 世界史の先生が強調していたことは、「中国という国は、みなさんが思っている以上に強大な国である」ということでしたね。それと、「イスラム世界というのが強い影響力を持っていた」ということも合わせて話していました。我々はつい「近代化」という概念から、欧米中心で物事をとらえがちであり、中国やイスラム世界の強大さ、を感じる機会が少ないように感じます。

 しかし、世界史的にはこうした国々が強い影響を持っている、そういうことを知るために、前近代の世界史を学ぶことは有益だなあ、ということを感じました。

 

 

 

 3日目は、生徒からの質問に答える形で進行しました。「自分たちの勉強法」「海外の世界史教育」「女性の歴史」「自由な時代とはいつか」「尊敬する人物」などを話しました。

 特に、海外の世界史教育の中で、特にオーストラリアの歴史教育の話題を取り上げていました。そこでは、ナチス・ドイツの話をしており、最終的には、「ナチス・ドイツが行った行為について、現在のドイツ人は責任を負うべきか」という、サンデルのような問いを提示していたそうです。そこでもやはり論拠、視点など、これから始まる歴史総合のような授業をしていたそうです。といっても、生徒は全然聞いてなくて、PCで遊んでいたようですが・・・。

 また、尊敬する人物の件で、世界史の先生が、ハンナ・アーレントを紹介していたのが印象的でしたね。

 

 

 そんなこんなで3日間を終えました。

 

 

 生徒の感想としては、やはり世界史にまで踏み込んでいくと、中学生には難しそうな印象でした。とはいえ、うちの生徒なので、何とか食らいついているというのが印象でした。また、高校生になると、かなり深く考察ができたようで、やはり世界史と日本史の多面的思考というのは、高校生ぐらいじゃないと厳しいのかな、でも、こうやって多面的な見方を深めていくことが、歴史の理解につながっていくのかな、ということを感じました。

 

 

 

 最後に生徒の感想を紹介して終わりにします。

 

 

歴史を学ぶ上で戦争は切っても切り離せないものであり、戦争と言うとどうしても男性主体、男性が戦地に戦いに行って女性は本国で兵器を作ったり家を守ったりするという固定概念が強かったのでソ連では女の人も戦いに行っていたという話を聞いて驚いたし、知れてよかったと思った。私が知らない偏見も歴史もきっとまだまだたくさんあるだろうからもっと学んでいきたいと思った。
 
 
 
 
初学者の歴史学習は暗記が中心の風潮があるが、歴史に対する「暗記科目」という印象を大きく変えてくれる講習だったと思う。それと同時に、歴史に関する考察はやはり知識があることが前提となるということも改めて感じた。社会科の授業でも「考える」という取り組みは取り入れられているが、本当に正直に言うと、あまり楽しく感じられなかった、むしろ先生のお話から新しい知識を得ている方が楽しいと感じていた(オーストラリアの学生も授業態度からして同意見なのかもしれない)。その原因は、考えることが面倒だと思っていたからではなく、単に広い視野と知識が足りていなかった故に楽しさに気づけなかったことに尽きるだろう。今回の講習では歴史のエキスパートともいえる先生方が雑談のように話すという形だったので、私のように知識不足で考察学習に魅力を感じない生徒も、暗記以外の歴史の楽しさに気づけたと思う。
 
 
 
 
歴史の観点から見ても、学んだことはたくさんあったのですが、一番強く感じたのは「対話の重要性、必要性」でした。当たり前の話ですが、人間には一人ひとり人生のドラマがあって、そこを土台に「今」が成り立っていると思うので(歴史もその積み重ねだし)、先生方が何を大事に考えているのか、生徒に何を学び取ってほしいのか、伝えることはとても大切だと感じました。オーストラリアで高校の授業を受けた時にも感じたのですが、日本以上に、圧倒的に、「対話」を大事にする。対話、会話の積み重ねで先生の話に興味を持つ子もいるし、対話することで新しい視点が生まれることもたくさんあるので、先生自身が「話したい」と望んで生徒に語りかけてくださる、今回の講義はとても意味深いと感じました。

 

 

 特に、「対話」という言葉が重要なのだな、ということを改めて感じました。歴史的事実はどうしても無味乾燥で、それがペーパーテストになるとより鮮明になります。

 しかし、歴史はそれを「どう切り取るか」というのが重要だと思います。それが、教科書や学習指導要領という「しがらみ」を一度抜きにして語ることが、実は、歴史に有意味性を持たせてくれる、そんな体験をさせられたのかな、と思います。

 

 

 

 

お盆が終わってしまいましたね

 火曜日から金曜日まで4連休でした。ここ数年の手帳を調べてみると、夏休みに4連休していたことがなかったようで、コロナだからなのか、今年は家にいる時間が本当に多く、幸せです。

 ひとまずこれまで原稿としてやってきたことが形になってきました。

 某教科書会社の社会科通信に自分の地理の実践を掲載し、いつも行っている研究会の雑誌に今回も高校日本史の論考を掲載させてもらいました。この後、もう1つの雑誌に論考が掲載される予定です。

 

 

 2020年は、結構余裕があるから色々書けるのかな、と思いきや、研究は全くしていません。むしろ燃え尽きちゃったぐらいです。

 というのも、今年はやはり受験指導という要素が、頭をもたげており、あれほどやらないようにしよう、と思っていたのに、コロナなのを言い訳に、現在絶賛解説祭りを始めております。

 また、某私立大学レベルの知識を入れ込んでいるので、なかなかどうしてマニアック。録音していないけど、授業録をみると、「〇〇は試験に出るよ」を何度言っていることでしょうか。

 オンライン授業という新たな要素も学校現場に入りつつある昨今。その一方で、講義式であったとしても「リアル」であった方がよい場合、というのが考えられます。

 ついこの間、定期考査がありました。高3生なので、自分がこれまでオンラインでアップした部分も範囲としつつ、かなり共通テストを意識した問題づくりを行いました。

 

 

 しかし、ふたを開けてみると、こちらとしては「常識レベル」で出しているつもりの問題が結構できていませんでした。(特に語句を答える問題)

 オンラインだと、例え授業動画をあげていたとしても、その温度まではなかなか感じないんだろうな、ということをつとに感じました。

 やっぱりやるなら、生徒の状況や温度を見ながら、授業をしていく、これが改めて必要なのだろうな、ということを感じています。

 

 

 再来週からは授業が再開されます。ぼちぼち話し合い活動を解禁しようかと画策しております。そうじゃないと、やっぱり授業の意味はないですからね。

蒙古襲来と「モッコ」の関係

 青森ローカルネタシリーズです。歴史秘話ヒストリアを見て書きたくなって書いています。

 

 青森県の子守唄には、なぜか寝ないと山から「モッコ」がくるぞ、という歌詞が多いです。例えば、地元つがる市木造地区のもの

 

 ねんねんころりよ おころりよ
泣げば山がら もこぁ 来ろぁね
泣がねで 泣がねで こんこせぇ
山の奥おぐの白犬しろいのこぁ
一匹吠えれば みな吠える
ねんねこ ねんねこ ねんねこせぇ

 

 うちの祖母が子守唄で歌っていたのがこれでした。その時に「モッコ」って言っていたのを覚えています。

 また、子どもながら最強に怖かったのが、地元の馬市祭りのクライマックスにあたる、新田火祭り。その時に、巫女の格好をした女性がたいまつをもって踊っている時に流れているのが、赤い鳥の「もっこう」でした*1

 

 


つがる市馬市まつり 新田火祭り 2014 巫女マスゲーム

 

 これを、小学生の時に見せつけられて、そりゃあ、もう、こわいの、なんの。

 

 

 そして、最後は火を放ったところで、青森ベンチャーズの「弥三郎節」でフィナーレですよ。

 


マサ三浦 「Mr弥三郎」 つがる市 (馬市まつり, 新田火祀り) 2012. 8/26日

 

 話が脱線しました(笑)

 

 上の子守唄の歌詞でいう「もこぁ」になっているところが、「モッコ」の部分。

 では、「モッコ」とは何か。基本的には「お化け」とか「怖いもの」を意味するのですが、この語源は「蒙古」に由来します。つまり、鎌倉時代に起きた「蒙古襲来」の「蒙古」です。

 

 

 でも、蒙古襲来って九州地方で起きた戦いですよね。なぜ、九州地方で起きた蒙古襲来の話が、津軽地方に伝承しているのでしょうか。

 

 これには諸説ありまして、自分は以下の説をとっていました。

 

 

 それは、「北からの蒙古襲来」説です。

 

 

 歴史上よく知られる元寇文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の2つですが、実は文永の役の10年前、北海道の北に位置する樺太へも蒙古軍侵攻がありました。これが「北からの蒙古襲来」です。大シンアンリン山脈(大興安嶺)を超えて、1234年に金帝国を滅亡させた蒙古軍が、さらに小シンアンリン山脈(小興安嶺)やシホテアリニ山脈を越えて樺太まで攻め込んできたことになります。まさに「山からモッコが来た」わけです。

 

 

 当時、津軽を本拠地にしていたのは、蝦夷管領である津軽安藤氏(安東氏)でした。北条時宗が執権に就任した1268年には、津軽蝦夷が蜂起し、蝦夷管領だった安藤五郎が殺害されています。その原因は史料が残されていないので詳細は不明だが、少なくとも北からの蒙古襲来が何らかの影響を与えていることは考えられるでしょう*2

 

 ひょっとしたら、安藤氏がモンゴル軍と直接対峙し、その強大な力だった「山から来たモッコ」が、恐ろしい存在だったからこそ、子守唄の中で、現在もなお語り継がれている、という説です。 

 

 

 

 しかし、歴史秘話ヒストリアではもう一つの説が紹介されており、そっちの方が「なるほど」と感じています。

 それは、元寇で敗れた対馬の人が、津軽に逃れ、そこで「對馬」姓を名乗ったという説です。

 元寇の、特に文永の役において、対馬は壊滅的な被害を受けました*3

 

 

当時、対馬の守護は少弐(しょうに)氏でしたが、実際に守っていたのは守護代宗資国(そう すけくに)でした。資国は80騎ほどの武士を率いて果敢に戦いますが、相手は3万もの大軍。勝てるはずがありません。資国はじめ、武士たちは全滅。元に占領された対馬は、目を覆わんばかりの惨状を呈しました。対馬の男はほとんどが殺され、捕らえられた女たちは手のひらに穴を空けられ、その穴に綱を通して数珠繋ぎにされ、船べりに吊るされた、と伝えられています。元軍は、対馬で殺戮と略奪の限りを尽くしましたが、これは日本に限ったことではありません。中東や欧州の諸国でも、蒙古に占領地された土地では殺戮と略奪が普通のことのように行われていたそうです。 (侍歴史ホームページより) 

 

 

 そんな対馬から、津軽地方へ移ってきた一族が、自分たちの住んでいた地域である「対馬」を姓として名乗ったとされます。この時の恐怖体験を「対馬」姓の人たちが代々子守唄として語ってきたとされる説です。

 確かに、青森の、特に津軽地方には「対馬」(正確には「對馬」)姓が多い。実家の隣に住んでいた人も「對馬」だったし、中3の時の担任も「對馬」だったわ。

 なるほど。だから、青森県には「對馬」が多いし、対馬の、元寇を体験した人たちが、子どもを寝かしつけるときに脅しのように語っていて、それがインパクト大だから現在にまで、青森県の子守唄として残されたのか、と思うと、なんだか合点がいってしまいました。

 

 

 

 もし自分が青森県で教壇に立って、ここを教えるとしたら、ぜひともこんな視点で教えてみたいな、と思うような内容です。生徒にとってはめちゃくちゃ身近だし、これで「北からの蒙古襲来」も、実際の蒙古襲来も教えられるわけですから。

*1:ちなみに、うちの母親もこの巫女役をやっていたことがあり、それを見に行ったことで、新田火祭りを知ることとなる。

*2:ちなみに、山川出版社の日本史の教科書には、「津軽の十三湊を根拠地として得宗支配下にあった安藤(安東)氏との交易を行っていた。そのアイヌの人びとのうちサハリンに住んでいた人びとは、モンゴルと交戦しており、モンゴルの影響は広く日本列島におよんでいった」と「北からの蒙古襲来」の記載がある。

*3:ちなみにこの時の様子は「アンゴルモア」というアニメで描かれています。。

ねぶた祭りを考える2020

 日記のログを調べたら、およそ7年ぶりに書くようです。

 ねぶた祭りを考える2020。今年は、新型コロナウイルス感染拡大のため、県内すべての祭りが中止となりました。青森市弘前市八戸市五所川原市も、そして、つがる市も。当然、東京の立川市羽衣地区、桜新町、中延、すべて中止です。

 そのため、今年は実家にも帰っていませんし(そもそもコロナが拡大しているから、帰ったところで顰蹙買うだけ(ビラは貼られないだろうけど))、お囃子会にも参加しないまま1年が過ぎるだろう、と予想されます。(もともと羽衣・桜新町・中延・一の江・六郷のスポット参戦でしたからね)

 というわけで、今年はねぶたとは切り離された1年を送ることになりそうです。

 

 

 それでも、青森県民はいい意味で、ねぶた「バカ」はたくさんいますので、以下のようなことが2020年には行われました。

 

小型ねぶたを自主運行/五所川原・誠和會
8/4(火) 21:44配信 

Web東奥
小型ねぶたを運行する誠和會のメンバー

 青森県五所川原市のねぶた制作・運行団体「誠和會」が4日、同市内で小型ねぶたを自主運行した。新型コロナウイルスの影響で五所川原立佞武多(たちねぷた)祭りが中止となったことを受けて企画。はやし方や引き手計約20人が約1キロを練り歩き、祭りの雰囲気を演出した。

 午後7時ごろ赤鬼を題材とした小型ねぶた(高さ約1メートル20センチ、幅約2メートル50センチ、奥行き約1メートル)が花火の合図とともに、同市下平井町の福士豆腐食堂を出発。約30分かけ同市太刀打の誠和會の作業小屋まで運行した。

 新型コロナ感染防止のため、参加者は事前に消毒や検温を徹底。人数も例年の半分ほどに抑え、小規模の運行となったが、はやし方が笛や太鼓を鳴らし「ヤッテマレ」の掛け声を夜空に響かせた。沿道にははやしの音に誘われた地域住民が集まり、写真を撮ったり、手を振ったりしていた。

 

 

 

 

 

 青森で一夜限りの祭典「ナヌカ日ねぶた」


 来年の祭り開催と新型コロナウイルス収束へ願いを込め、一夜限りの大型ねぶたの祭典-。青森市民を対象としたねぶた展示イベント「ナヌカ日ねぶた」が7日、同市の青い海公園で行われ、親子連れら4千人がねぶたを眺め、囃子(はやし)の音色を楽しみながら、今年は中止となってしまった青森ねぶた祭の雰囲気を堪能した

 

 

 こうやってみると、ねぶたが地域に還ったな、というのが印象です。

 もともとこの「ねぶた祭を考える」シリーズで自分が主張していることは、

 

 ねぶたは観光客のための祭りではない

 

 ということです。

 本来、祭りとは、地域の農耕祭祀の一環として行われるものであり、ねぶたやねぷたも、もともとは、旧暦の七夕のねぶり流しや、夏の農閑期の「眠気」を払うために行われていたものであり、ねぶたを「流す」とで、邪気を流し、秋の豊作を祈るためのものでした。

 

 それがいつしか、農業人口の減少と、観光化の進展、さらには交通の発達にともなって、祭りはいつしか観光資源となっていきます。現在の青森ねぶた祭りとなったのは、国鉄周遊きっぷを販売する過程で、東北三大祭りにねぶたが指定された、昭和33年(1958年)からです。(ちなみにこの辺は、中学校の地理の教科書にも書いてあります)

 

 

 つまり、ねぶた祭りは、観光とセットなのであり、毎年250万人近い人々がこのねぶた祭りに参加します。当然億単位のお金が発生する一大イベントなわけです。

 そんな中、2000年代以降に急速に観光化していったのが、五所川原市立佞武多です。もともと明治時代に作られていた、縦に大きな佞武多を、1996年に復元。98年には街を整備して、市内運行を実現。以来、毎年のように新作を作っていきました。

 当然、立佞武多も観光とセットですので、運行コースの指定、衣装の指定、カラスハネトの規制など、だんだんとルールが追加・整備されていきました。観光化の上ではやむを得ないのですが、本来、地元の人が楽しむという観点ではどうなの、というのはこれまで何度も主張してきた通りです。

 

 

 それが、例えばナヌカ日として、花火とセットで一部の人ではあるけど、青森市民が見られるようにする、運行団体が独自で町内を練り歩く、これはまさに、ねぶたが地域に戻った瞬間でしょう。

 祭りとは、本来、「その地域に住んでいる人のための」祭りであるべきだと自分は思っています。だからこそ、例えばつがる市のように、合同運行とは別に、町内で運行する、そんなことがあってもよいのではないでしょうか。

 

 

 

 コロナウイルスの問題は、グローバル化した現在においては、それと逆行するような現象を生んでいます。当然そこには、他者を排するというマイナスの側面を有する場合もあります(今回の青森市のビラの件がまさにそれでしょう)。

 でもそれは、逆に「ローカル」を見直す機会にもなります。ねぶたが地域の祭りに戻るチャンスでもあります。それが今回の事例なのかな、と感じています。

 それに5Gの世の中ですから、今はネットで見ることもできます。実際、五所川原の運行を自分は東京で見ていましたよ。

 

 

 2021年、ねぶたはどのような形での開催になるのか。おそらく今までどおり、とはいかないでしょう。感染拡大の状況によっては、青森県民だけの参加、になるかもしれません。とにかくこれまでの祭りとは異なる形が求められます。その時に大切なことは、「祭りは誰のためのものなのか」です。

 

 

歴史秘話ヒストリアの日本中世史のところを見まくっている

 ここ最近、歴史秘話ヒストリアを授業で見せるために、録りだめしていたヒストリアを見直している。

 見直しているのは、「承久の乱」「蒙古襲来」「足利義満」「観応の擾乱+嘉吉の徳政令応仁の乱」の回。あと、「観応の擾乱」と「応仁の乱」は単独でやっているものも後で見ようと思う。

 

 「承久の乱」については、結局鎌倉武士が上皇側につかなかったのは、院宣が出たところで、その後の土地(給料)を保障しているわけではなかったこと(結局、政子の側がそれを改めて保障したっていうこと)なんですよね。中学の授業とかでは、結構御家人との主従関係(上下関係)の部分が強調されがちですが、あれって、何だかんだで生活保障でしかありませんからね。そう考えると、鎌倉武士ってかなり現金、なんだなってことが分かります。

 

 「蒙古襲来」は、元軍に対して鎌倉武士たちが無力で、暴風雨が来てたまたま勝ったような感じで語られがちですが、今の山川の教科書って「再度にわたる襲来の失敗は・・・幕府の統制のもとに、おもに九州地方の武士がよく戦ったことが大きな理由であった」って、ちゃんと鎌倉武士たちの功績を評価する記述になっているんですよね。この辺りは、我々が教わっていた蒙古襲来とは異なる視点ですから、この辺りを絵巻を通じて考えさせた方がよいですよね。

 とはいえ、この戦いによって、これまでいち東国政権に過ぎなかった幕府権力が全国にまで拡大したにも関わらず、霜月騒動などによって、幕府の実権は北条得宗家が独占する状態になってしまっていますから、さっき言った主従関係でいえば、そんな主が、永仁の徳政令などによって、所領安堵をしてくれないくせに、軍役だ、屋敷の修理だ、って言われたら、そりゃあ、主従関係を解消したくなりますわね。

 

 

 ちなみに、青森県では、子守唄で「ねねば山からモッコくるど」という歌詞があります。(自分は、地元の祭り(新田火祭り)で、馬ねぶたに火を放つ際に、歌っており、これはwikipediaによると、まさに地元の子守唄らしいです)

 「モッコ」とは、「蒙古」のこと。つまり、「蒙古襲来」をさしています。蒙古襲来は九州で起きた戦いなのに、なぜ青森?と疑問に思っていました。

 これまでは、蒙古襲来とほぼ同時期に起きていた、「北からの蒙古襲来」(モンゴルの樺太侵攻)が関係しているのかなと思っていたのですが、ヒストリアでは違う説が出されていました。

 それは、文永の役で壊滅的な被害を受けた対馬の人が津軽へ移住し、そのまま「対馬」姓を名乗って住み着いた、という説です。確かに、青森県には「つしま」の苗字が多い。(正確には「對馬」が多い)その人たちが、子どもを寝かしつける時に、蒙古襲来の話をしたのではないか、という説です。

 この話、青森県にいる人なら、何となく合点がいく話なんですよね。


 だいぶ書くことに満足してきたので、今日はここまで。

先月と今月で買った本とDVD

 いずれも教材研究のために。

 

  大河ドラマ平清盛」は視聴率は悪かったものの、日本史を教える上では、この上なく有益な情報がいっぱい。特に、保元の乱平治の乱については、このDVDをみればおおよその内容がわかる。夏期講習でこれを使って、保元の乱平治の乱のあらすじを確認しました。

 このドラマで平清盛白河上皇落胤説を採用していたりとか、ドラマの要素はあるものの、例えば頼長の男色を表現していたり、保元の乱の際に死刑が復活し、叔父や父親を斬首するシーン、二条天皇を女装させて御所から脱出させるシーンなど、なかなかいい感じです。

 そして、なかなか覚えづらい摂関家が、頼長=山本耕史信西阿部サダヲ、信頼=塚地武雅で覚えられるのが最高。

 

 

 

 

 

  これも夏期講習のために購入。那須与一の扇の的、壇の浦での義経八艘飛び、知盛の最期、大物浦で知盛の亡霊に出会うシーン、腰越状静御前の舞、勧進帳、そして義経自害と弁慶の立ち往生が見られます。

 さすがに平清盛よりは、エンタメ要素が強いかな。それにしても、滝沢秀明がイケメンですよね。

 2022年の「鎌倉殿の13人」はこの続きを描くということで、楽しみでしょうがないです。

 

 

 

  一応購入して読んでいます。個人的には、「ミミヲキリハナヲソギ」は、聞くと残虐に感じるけど、この時代からすれば、死罪よりも刑一等下げられた刑罰である、という当時の法秩序と照らし合わせて分析しているところが面白いですね。

 日本中世史は、現在と異なる価値観の詰め合わせセットみたいな時代なので、ぜひエンパシーを働かせて歴史を考えてほしいですね。命よりも大切な先祖代々の土地、というのも今の我々には中々考えられない価値観だと思いますし。

 

 

 

 あとは以前買ったものですが、以下の本を読みながら、日本史の教材づくりをしています。

 

 

 

 

 

 

 

高大連携歴史教育研究会をzoomで参加

 便利な世の中になりましたね。家にいながら、歴史教育の研究会に参加できるなんて。

 ということで、今日は高大連携歴史教育研究会の研究会に参加しました。

 午前中は、「新学習指導要領の歴史系科目を通して、いかなる「資質・能力」の育成を目指すべきか」(感染症と社会)に、午後は、「中学校、高校、大学の接続と歴史的思考力の継続的育成」に、参加しました。

 

 午前中は、タイトルにある「資質・能力」への言及はほとんどなく、ただの「感染症をいかに扱うか」に終始していた印象でした。また、行壽先生のように、中学生を相手にしていれば、扱う資料は極力少なくして生徒に読み取らせ、そこから生徒との対話を通して考えさせる、という「授業のリアル」が具体的にみられて面白かったのですが、高校に上がっていくと、よくある「ネタ系」と「資料提供」となり、大学の先生になれば、こうした歴史教育系のところであるあるの、「自分の専門をぜひ扱ってアピール」になってしまっていました。こうした傾向は、午後のシンポジウムを主宰していた野々山先生も注に書いていますが、単に「新たなテーマ史」が増えただけ、になってしまわないか心配です。

 また、ブルームのタキソノミーの話も出ていましたが、これも文部科学省が出しているから使ってみよう、感が強かったかなあ、と。あれは教育学というか、教科横断的な発想で用いられるものじゃないかな、という印象。とはいえ、そんなのあったんだ、ということが知れたので勉強にはなりました。

 

 

 

 午後は、「歴史的思考力」に関する議論。まずは、星先生が報告。こうしてWゼミのゼミ生が、ごりごりの歴史教育系の学会で発表していることが斬新でした。原田先生や梅津先生が参考文献に挙げられることはあっても、バートン、レヴィスティック、渡部先生が参考文献に挙げられるという世界線

 報告自体は、エイムトークや、社会的文脈論、レリバンスの話なので、自分的には何の違和感もないのですが、これをこの分科会の報告者がきちんとシェアして、それを提起しているっていう光景が、なんというか、革命的でした。これを歴史教育者や、歴史教師*1が、どう受け止めたのか、が個人的に気になります。

 福崎先生の報告は、学習者の学ぶ「文脈」に着目しようと、例えば豊嶌・柴田論文に取り上げられていた「教室のファンタジー問題」や「ガチ度」の話や、ヴィギンス・マクタイとニューマンの違いを取り上げ、生徒のレリバンスを意識した授業実践を目指していますが、こと日本史の、しかも前近代となると、やはりそれが難しいんだな、という印象。

 具体的に扱われていた「問い」が、「秀吉の朝鮮派兵をあなたは何と表現しますか」と、「江戸の改革は普通、三大改革と呼ばれるけど、本当にそうか。あなたなら、〇大改革にするか」という問いで、これは、W先生の「Doing History」でも批判されていた、マニア向けメタ・ヒストリーになってしまっている。

 とはいえ、進学校という文脈上、やむを得ないのかな、と個人的には思っています。また、「秀吉」の方は、問いが「韓国からの留学生との対話」という条件に変わっているので、これならば真正性があがったのではないか、と感じます。

 個人的に、自分がこの改革の辺りをやるのであれば、「改革が語られるときは、どのような時か」ということをテーマにやるかな、と思います。基本的に「改革」といった時には、「政治の刷新」を意味するので、それまで行われてきた政治を否定しますよね。例えば、小泉純一郎は「古い自民党をぶっ壊す」「痛みを伴う構造改革」という言葉を用いて、自らの政治の正当性を主張していました。安倍政権も「働き方改革」「大胆な改革」など、しきりにキーワードとして用いています。

 結局、寛政の改革天保の改革も、吉宗の頃に行われていたものを、「善」とし、それまでの経済開放的なものを「悪」と断じて、自らの政治の正当性を主張しているに過ぎないんですよね。松平定信がその典型ですよね。そんな視点でやれたら、もう少し真正性が増すんじゃないかな、と思います。

 

 

 野々山先生の報告は、以前高大連携で見た資料は、とても歴史歴史していたので、生徒の学びと乖離しているのでは、と批判したこともあったのですが、今回の報告は、生徒の「問い」から資料を持ってきて、現代社会の意義を、世界史を通じて考えさせていて、「すげーなこれ」というのが正直な感想でした。まさに星先生が示していた、『歴史的思考プロジェクト』のものに近いなあ、という感じでした。例えば、グージュの「女権宣言」を史料として提示し、当時はこの考え方は受け入れられずにグージュは処刑されてしまう、現代に生きる私たちは彼女の慰霊碑を作るべきか、を問いとして投げかけ、生徒に考えさせていました。扱っているテーマも、ジェンダー、平和など、それを史料として投げかけ、現在に生きる生徒が過去を照射するというアプローチがとられており、面白いな、と感じました。

 何よりも、生徒の疑問や問題関心から、史料を持ってきてそれを示すバイタリティーが半端ない。おそらくこういう授業が、歴史総合が目指したい授業なんだろうな、と感じました。

 

 

 この分科会では、「歴史的思考力」はこれだ、と1つに断定することはできない。生徒の文脈をふまえ、教師がゲートキーピングしていくことが共有されていました。それを共有した上で、「歴史的思考力」に関する議論が展開されていたような気がします。そもそもの「知識どうするの?」「受験大丈夫なの?」的な話が出なかったことが、それを物語っているような気がします。

 

 

 最近、授業も受験をみすえて講義しかしていない状況なので、いい刺激になりました。ありがとうございました。

 

 

 それにしても、家にいながらこうやって刺激を受けられるって、zoomって本当に便利だね。ずっとこうやって学会してほしいな。

 

*1:個人的には、歴史授業=歴史学的知見+教育方法と考えている先生、あるいは内容と方法の二元論で考えている先生をさす