青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

歴史学を考える〜自戒をこめて〜

 最近、卒業論文のことで気がめいっている。それと同時に改めて自分は歴史学から逃げてきたことを痛感する。また同時に自分は本当に歴史学に向いていないということも感じる。
 そもそも学問というのは古代ギリシャの富裕層たちによって始められた、俗っぽく言うと、「金持ちのひまつぶし」だったわけである。その脇では労働者たちが汗水流して働いている。学問ができる人はそうした労働者たちを指示し、自分はその搾取を受けるという。そういう身分社会の中で学問というのが生まれたのである。
 つまり、大学はそうしたひまつぶしをするための場所だと考えていいと思う。そこでいろんな人に会い、いろんなことをする。大学はまさにスコレーの残存形態と言えるのではないだろうか。


 ひるかえって学問としての歴史学を考えてみよう。社会科という科目の中で歴史学ほどブルジョアジーな学問はない。あらゆる学問はそもそもは批判の学なのであるが、歴史学は特に批判の学である。
 かたや教育はどうか。私は教育とは肯定の学であると思っている。つまり、同じ歴史でも歴史学歴史教育ではまるで正反対なのである。


 昨日、聴講している授業で2本のビデオを見せられた。一つは小学生向けの紫式部に焦点を当てたビデオ、かたやもう一つは大学の先生(古代史の先生)が出ていた平安時代の対外関係のビデオである。そうして感想を書いて提出した際、先生が「最初のほうは分かりやすかったけど、後のやつはつまらなかった」という感想を書いたものを読み上げていた。


 これこそ学問と教育の違いなのである。かたや専門性に目を向け、かたや分かりやすさを重視する。教育としての歴史は分かりやすい反面、歴史の固定化を招き、真実を埋没させている。かたや学問としての歴史は歴史の常識をぶち壊すには格好であり、真実を追究できるのだが、それは一部の分かりあった人たちのみでしか通じない、暗号のようなもので、興味のない人にとってはそれは「つまらない」という一言で片付けられてしまう。


 さて私はどっちが好きでしょう?答えは言わなくても分かりますよね。どうして歴史学者を批判しなきゃいけないのですか?僕には知識がないため、批判=あら捜し、批判=嫌いになる、という図式が固定化されてしまっている。


 歴史を受け入れるというのはダメなのですか?歴史の説をただただ眺めるだけではダメなのですか?こんなこと言ったら多分歴史学の先生に怒られてしまうのでしょうけど。うちの西のほうから来た社会科教育学の先生が言ってましたよ。「地理やって何の意味があるの?」「歴史やって、地域の偉人やって何の意味があるの?」、ベクトルは違うだろうけど、私も敢えて言いたい。「歴史学やって何の意味があるの?」って。


 おそらくなぜこうやって歴史学を批判するのか、理由はただ一つ。先生と仲良くしなかったから。歴史学というものに触れていないからでしょう。きっと僕のことだから「楽しいなあ」ってのめりこんだら、きっと歴史学も楽しくなるでしょう。でも、歴史学は膨大な知識がないと自分の主張ができないし、できたとしても1ミリ前進するかしないか程度。そんな意見の言えない苦しい学問は息がつまってしまう。


 平和ボケした現在で、興味以外で関心を持つ事は難しいだろうし、まして現実社会の問題意識と切実性をもって過去や歴史学と向かい合う人はほんの一握りだと思います。そうした人が学者になるのでしょう。


 長々と書きました。全て読んでくれた方、本当にありがとうございました。こうやって書いていると同時に、こうした失敗や挫折しかけている時こそ問題意識が生まれるという、まあ、何とも皮肉な状況になっていますけど。しかもその問題意識が見事に卒論と逆のベクトルだから本当に性質が悪いよな自分、と戒めておきます。