青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

池上彰とマイケルサンデルから社会科を読み解く

 最近[think]ネタを書いていなかったので、久々にだらだら書きたいと思います。といっても、かつての大学院時代ほど頭のキレはないので、その辺ご容赦。


 今年は社会科、とりわけ社会認識や市民的資質を考える上で、とても参考になる2人の人物が現れました。
 一人は池上彰、そしてもう一人はマイケル・サンデル教授です。



 この2人、今の社会科の潮流でいうと、池上彰が科学的探求主義社会科、そしてサンデル教授が市民社会科(批判主義社会科)というものでしょうか。



 まず、科学的探求主義社会科は、その代表的論者に森分孝治氏がいますが、よりざっくりした説明でいうと、社会科は社会科学の知見に基づいて、社会を「説明」できるような能力を身につけなければならないというものである。
 なぜ社会科学かといえば、それは社会科学が専門家たちの議論を経た上で、現段階で暫定的に「正しい」とされる認識だからであり、しかもそれがどこの地域、どこの社会の事例にあてはめてもおおよそあてはまる普遍的知識(森分氏はこれを一般的説明的知識と呼ぶ)だからである。




 つまり、社会科で教えるべきは、例えば「工場は費用コストが低くなるところに立地しやすい」や「人々の消費が活性化すると庶民中心の文化が生まれやすい」などのどこの地域、どこの時代にあてはめてもおおよそ通用する知識であり、それを具体的事例を通して理解することで、社会認識を深めていくべきだとする考え方である。



 これを今年、メディアを通して大々的に行ったのが池上彰である。彼が大うけしたのは、この時代の閉塞感からもっと社会を知りたいという人々の欲求の上に、一見すると難しい知識を「誰にでも分かるように丁寧に」説明するからである。しかもその問題は、教科書的な知識ではなく、領土問題、環境問題など、人々が長い時間をかけても解決できない問題である。



 それを池上彰は「どうして領土問題が起こったのか」「どうして環境問題が起きているのか」という「どうして(Why)」という問いを中心に、具体事例を挙げて探求していく。ちょうどそれは、探求主義社会科が「なぜ(Why)」という問いを中心に授業をしていくことの有効性を指摘している点と類似している。



 僕は個人的には池上彰のテレビは参考になるのでよく授業ネタとして使っている。自分も授業は探求主義もどきの授業で、生徒が理解できるように授業を心がけている。




 ただ、探求主義社会科はその認識が特定の科学理論を基にした探求に陥るという点で、認識が閉ざされてしまう、という批判に90年代以降さらされることになる。
 それはきっと池上彰にも言えることだろう。メディアでは池上批判をあまり聞かないが(すると池上さんが来なくなるからだろうが)、テレビで語っている理論にだって十分批判可能性があるはずである。また、場合によっては間違っているかもしれない。あくまで池上彰の頭の中の理論であるから、それが「100%正しい」とは言えないのである。



 それに対して、社会科にはもうひとつの潮流がある。それが、意思決定主義社会科以降、主に公民教育の分野を中心に登場した批判主義の考え方である。これは池野範男氏が代表的論者かな。
 これもかなりざっくりした説明をすると、理論を批判するためには、その背景にある価値観、及びその価値観を支えている知識を相対化し、複数示した上で、「あなたはどっち?」と問う形の社会科である。これをすることによって、社会科の目標である社会を批判的に見る能力と、それを踏まえた上で議論をする能力の両方を養おうとするものである。



 それを地でやっているのが、ハーバード白熱授業でおなじみのマイケル・サンデル教授である。彼の正義論の授業は、正義というのは一人ひとりの価値観やそれを支えている認識によって全く異なる、だからこそお互いの「正義」を表出させ、より確からしい「正義」へと導いていくというものである。
 近年、この白熱授業は日本でも注目され、東京都職員の研修や、大学の授業でも積極的に導入されているとか。




 僕は社会科の究極はここにあるんだろうなあ、とは常に思うけど、僕自身の社会科観は残念ながらこれではありません。なぜなら僕はこのタイプの授業をこう思っているからです。




 まず一つは、この授業は優秀なプロデューサー(教師)がいないと絶対にできない実践だからです。価値観を表出する、議論をするというのは、時として感情論になります。特に議論が苦手で、批判と否定の区別すらつかない日本人、まして中高生にこれをやるのはかなりの無理があると自分は思うからです。




 そしてもう一つは、これを受ける側に知識がないといけないと強く思うからです。この手の議論が面白くなるかはひとえに、議論をする側の力量に関わってきます。サンデル教授の授業も、発言できていたのは結局、エリートさんだったような気がしましたし、この間やっていた日本版白熱授業も、シラバスを見ると、あの議論の前にきちんと未来の社会を描きだすヒントみたいなものを授業で教えているようでしたし。




 だから、白熱授業が素晴らしいから、プレゼン能力が身につくからといって安易に導入しようとする人間には僕は虫唾が走るわけですよ。いわゆる「○○力」と叫んで、結局中身は何もなし、的な。
 ただ、白熱授業の内容は、どれもこれも面白いものばかりなので、いつかはやってみたいな、とは思っていますけど。




 議論を分かりやすくするために、わざと二項対立で描きましたが、結局、白熱授業のようなレベルの高い授業(=社会問題をオープンエンド、生徒任せで行う授業)をするためには、その基礎となる池上彰みたいな知識が必要だと自分は思うわけですよ。だから自分の勤務校では白熱授業はしないし、しても意味がないと思っているわけです。
 だから僕は、今の勤務校では社会科は池上彰のように教えようと思っていますし、それを2011年も続けていこうと思っています。
 長くなりましたが、今自分が社会科について思っていることです。