青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

2月に買った本

 

明治十四年の政変 (インターナショナル新書)

明治十四年の政変 (インターナショナル新書)

  • 作者:久保田 哲
  • 発売日: 2021/02/05
  • メディア: 新書
 

  まだ眺め読みしかしてないけど、大隈と伊藤だけじゃなく、福沢諭吉黒田清隆井上毅などの登場人物もふまえながら丁寧に描かれている。改めて、明治十四年の政変が大久保・木戸・西郷ら亡き後の、維新第二世代たちの政争だったということがよく分かる。

いろいろと更新していきます。

社会系教科教育学会で読んだ論考①

 歴史的エンパシーの実証的研究 (石井天真)

 歴史的エンパシーとは、過去を異文化ととらえ、異質な他者としての過去の人々の思考や感情を理解を目指す学習や資質能力のことである。この研究では、生徒があらかじめ持っている歴史事象に関する既有知識が歴史的エンパシーに与える影響と、こうした授業を生徒はどのように意味づけるのか、について実践記録を基に考察している。

 授業としては戦国時代を題材に、生徒が知っている人物(信長、秀吉、ザビエル)と、知らない人物(武田勝頼小早川秀秋)を取り上げ、現代の価値観や感覚からすれば一見不思議な行為の背景にある、歴史的文脈や社会状況に気づかせるような授業となっている。

 この授業後の記録から、生徒のエンパシーを働かせる際の視点として、素朴な想像、知識の活用、資料の活用、イメージのあてはめ、自己のあてはめ、自己反省、他者の意見の7つの要素が抽出された。特に、初期の段階では既有知識の有無によるイメージのあてはめが強く影響していることを指摘している。(具体的には、「戦いに勝った(負けた)」という事実から「リーダーシップがある(ない)」と判断するなど)

 しかし、こうしたイメージも、資料を提示して授業を進めていく中で、文脈性を意識した記述へと変化すること、そして、その際には授業で提示されている資料が大きな影響を与えていることを指摘している。

 そして、こうした授業を生徒はどう意味づけたのか。「なぜ、歴史を学ぶのか?」のアンケートに対し、定番としては「教訓」の項目が多い(このアンケートでも1番だった)のだが、この実践を受けた生徒は、「人間理解」という項目が多い(2番目に多い)ことが注目される。石井氏が意味付けとして指摘していることは以下の三点に要約される。

 1.「他者理解」が歴史を学ぶ理由としているのは、元からではなく、この授業を通して新たに意味づけられた項目であること(=授業外で獲得しにくいものであること)

 2.1番目に多かった「教訓」については、生徒が学習していないにも関わらず「戦争」というキーワードをあげていることから、授業外ですでに獲得されている意味づけの1つであること

 3.歴史を学ぶ「意味付け」は近現代の方に多く感じる一方、歴史の「面白さ」については、古代の方に多く感じていること。

 

 つまり、歴史的エンパシーを働かせるような授業場面において、生徒は既有知識の有無をふまえて自分なりに「イメージ」を働かせながら歴史事象を考えていること、資料を通してそれに揺さぶりをかける歴史学習を行うことで、生徒は「他者理解の機会」として歴史学習を意味づけることを明らかにしている。

 

 

(勝手に講評)

 この論考は、エンパシーの点に焦点を当てているが、行われている授業がかなり丁寧に行われていることを感じる。例えば、導入で紹介されている江戸時代の4人の為政者の行動を、当時の文脈や社会状況から考えさせるのは、なかなかに難しいだろうが、生徒のコメントから、きちんと文脈に合わせた記述が見られている。

 そうした丁寧な授業だからこそ、「他者理解の機会」として、生徒が歴史を意味づけたのではないか、と思う。

 また、歴史の意味付けとして「教訓」を取り上げるのは、何も歴史授業実践の有無によらないことを間接的に指摘していることも興味深い。自分が年度末などに生徒に取るアンケートでも、やはり同様の結果が出る。その時に、「これ、本当に歴史を深く考えているのかな・・・?」と思ったりもする。つまり、教訓としての歴史という要素は子どもなりに歴史の意味付けとして素朴に持っている感覚の1つであることが分かる。

 同時に、エンパシーを働かせる機会は、歴史授業を行う(社会科のかもしれないけど)意味づけの1つであることを感じた。「なるほど、だから歴史教育者がしきりにエンパシー、エンパシーと言っているのか」ということが分かった。

 一方で、歴史の「面白さ」については、古代史の方に多く感じるという結果もまた興味深い。意味付けや意義という観点で研究を進めると、どうしても前近代が捨象されてしまうのだが、そうなんだよね、歴史好きな人って、前近代の方が好きなんだよね、というある種の共感のようなものを感じた。

 また、自分の調査でも出てきたが、歴史が「好き」な人って、「学ぶ意味」を感じてやっていないんだよね。ある種の教養というか、趣味というか、そんな感じでやっている。でも、そういう人の方が、現行のペーパーテストでは歴史ができちゃったりする。つまり、歴史って知っている人(既有知識を持っている人)ほど有利な科目だったりするわけで。

 いずれにしても、なるほど、こうやって為政者や人物の「イメージ」から、エンパシーって可視化されるんだということが分かり、勉強になりました。ありがとうございました。

 

 

 

 

社会系教科教育学会で読んだ論考②

 星瑞希 歴史意識の向上を図る日本近現代史カリキュラム開発研究

 

 この論稿では、客観的に歴史認識を問う歴史教育から、自分自身や自分を取り巻く社会がどのように歴史によって形成されているのかを分析していく中で、自らの歴史と他者の歴史を比較し、その見方を批判的にとらえるという歴史教育への転換を目指し、カナダのSeixasらによって開発されたカリキュラムを参考にしながら、実際のカリキュラム開発を行ったものである。

 Seixasのカリキュラムでは、過去に何が起きたかを探究する概念と、現代に生きる我々が過去をいかに用いたり対象にしたりするかを探究する概念、過去と現代を比較し、類似点と相違点を明らかにする概念とに分けることができる。星他(2020)*1によれば、「過去探究概念」と「現在探究概念」を往還しながら単元を構成することで、「現在主義」を克服し、過去の文脈を精緻に読み解くこともできるようなカリキュラム構成となっている。

 このカリキュラム構成を応用し、星氏は、現行の学習指導要領の範囲の中で、カリキュラムを構成している。歴史論争問題ごとに単元を分節化し、単元ごとに最終課題を提示している。例えば、アイヌ問題の考察を通して「日本は単一民族国家か」というEQを提示し、「日本人」というアイデンティティがいかに構築されてきたかを考えさせるような単元展開としている。

 その後、実際に授業を受けた2人の生徒の学びを最終課題とインタビューをもとにまとめている。こうした授業を通して、ただ単線的で暗記をしていただけの歴史が多角的に考察できるようになったこと、学ぶ意味として「他者理解」の重要性について学んだこと、歴史の中で形成された考え方が今の自分の考え方につながっていること、などを感じており、歴史授業に意味を見出していなかった生徒が、意味を見出せるようになったことを指摘している。

 

 

 

(講評)

 昨年度星氏が発表したカナダのSeixasのカリキュラムを、日本の文脈にあてはめてカリキュラム化を目指した意欲作である。とはいえやはり、カナダの文脈と日本の学習指導要領という文脈の中で、かなり苦労してカリキュラムを作っているな、という印象である。それは、日本の歴史教科書や歴史授業が、論争問題をあまり取り上げていないこと、通史という制約の中で教えなければならないこと、などが要因として考えられると思う。

 自分自身は、歴史論争問題を取り上げることは、一種の「暴露型授業」に陥る可能性が高く、中途半端にやることは生徒に、逆に差別を助長するようなことにつながってしまうのではないか・・・。それゆえ、歴史論争問題を敢えて避けて授業をしている。もし取り扱うにしても、教師の側が口述する形で済ませたりすることの方が多い。

 そのため、歴史論争問題を取り扱った授業は、これまで行われてきた客観的な歴史認識をつらつら並べるだけの授業に退屈している生徒にとっては、有意味性を感じる授業となる。しかし、その一方で、単純に歴史が「好き」な人、知識や教養(あるいは受験目的)として歴史を学びたいと考えている人(「学ぶ意味」を深く考えずに歴史を学んでいる層、客観的な歴史認識を望んでいる層)にとって、この授業がどうであったのか、を知りたいところである。ここで挙げられている無意味→有意味になった生徒だけでなく、もともと歴史が「好き」な生徒がどう感じたのか、そこに有意味性を見出したのか、を単純に知りたいところである。

 

 

 とはいえ、「歴史を学ぶ意味」を意識した授業では、歴史論争問題をいかに取り扱うか、それをカリキュラムにどう位置づけるか、を考えることは必要不可欠である。そういう意味で、今回は明治から日清戦争まででとどまっていたが、やはり第二次世界大戦の辺りや、その後の現代史なども見据えてカリキュラムを構成していくことが、他の実践者にとっても、生徒にとっても有意味性を高めていくことにつながるのではないか、と考える。

 (とはいえ、ここから先の歴史は扱いづらいこともまた事実である。個人的には、全員がやる授業ではないところでやり取りする/現代の話題・関心から歴史を照射する形で考える、という方法で行うのが好ましいような感じがする)

 

 

(追記)

 この後、星先生から、様々にコメントいただきました。ありがとうございました。今回の実践が日清戦争まででとどまっているのは、コロナウイルスによる進度の問題とのこと。これ以降、何をテーマに取り上げて生徒に考えさせるかが楽しみです。

 

*1:現代社会における歴史論争問題に取り組むための授業構成」(『社会系教科教育学研究』第32号

1月に買った本

 

  独ソ戦に従軍した女性たちの話をまとめた原作の漫画化第2巻。今回も、人々の視点から描く戦争の経験というのがありありと伝わってくる内容になっています。

 

 

 

 

スマホ脳(新潮新書)

スマホ脳(新潮新書)

 

  スマートフォンやパソコンがなぜいけないのか、というのは様々な人が様々な形で提言・提案していますが、この本は、そもそも脳科学的に、人間の脳はスマートフォンに対応していないんだ、ということを具体的なデータで提唱しています。

 この提言をふまえて、スマートフォンやパソコンの使い方を見直してみたり、生徒に「スマホの長時間利用がなぜいけないのか」を考えさせてみるのもよいのではないか、と思います。

奥山研司「歴史学習における解釈学習のあり方」(金子邦秀監修 『多様化時代の社会科授業デザイン』より)

 学習指導要領の改訂により、史資料から歴史を解釈する学習がクローズアップされている。

 ただし、気を付けなければならないのが、生徒の自由な解釈を認めすぎると、歴史相対主義を招き、子どもたちの「事実」「史実」を探究しようとする意欲・姿勢を損ね、探究の営為を手放してしまう。やはり「解釈」にも優劣があり、それには証拠と論理性が必要であることに気づかせなければならない。

 そのためには、解釈が拡散して優劣がつかない史料ではなく、優劣の判断がつきやすく解釈が収束していく史料を選んで教材化する必要があるだろう。

 しかし、奥山氏によれば現行の高等学校歴史教科書における「歴史の解釈」の教材にはいくつかの問題点があることを指摘する。

 

 奥山氏の主張は最後に要約されている。

① 教科書の解釈学習の事例には、生徒にとって内容的にも方法的にもどの部分に「歴史の解釈」が入っているのかわからないものが多い。

 

② 絵画史料は沈黙史料と言われ、情報の読み取りやその解釈は恣意に流れやすく、解釈の妥当性を検証する契機を欠くことが多く、解釈学習の教材にはなじまない。

 

③ 教科書の事例を、次期学習指導要領の主旨(「do history」)に沿って教材化するためには、ワークシート化する必要がある。

 

④ ワークシートには、生徒自身による解釈を保証し、また反証可能性を担保するために、一定程度のボリュームを持った史料の掲載が必要である。

 

⑤ 解釈学習では、”事実と史料の間の距離”が短く、読解する者の解釈の介入する程度が小さい教材を使用し、”揺るがない事実”に収束する解釈の練習から始めるべきではないか。 

 

 特に注目すべきは、②の主張である。よく解釈学習では、生徒から多様な意見を引き出すために、絵画史料を取り入れることが多い。しかし、絵画史料は解釈の多様性は認めても、その解釈の「妥当性」というところにまでは至らないという主張である。

 これは自分の経験でもあるが、絵画史料はぶっちゃけ使いづらい。読み取らせる時間をとったとしても、そこから得られるものは非常に少ないと感じる(結局、オチがないので、生徒に意見を言わせて終わりになってしまう)。「とりあえず生徒に話をさせる」という点ではよいかもしれないが、多様な答えが出てきたときに、それをどう落とすのかは、やはり難しいだろう。

 最近、「主体的」という言葉がクローズアップされているが、社会科とか、地理歴史科という枠組みが設定されている以上は、その枠組みから極端にはみ出さない範囲で、生徒に考えさせることが必要だと思う。

社会科教育を考える2021(主体的に学ぶとは?)

 

 毎年、この時期だからこそ文章化できている、社会科教育(歴史教育)に関する私見。ただし、自分の勤務校に馴染めば馴染むほど、社会科教育を忘れてしまいがちになってしまいます。

 

 

 そんなわけで、2021年に個人的に思っていることをつらつらと書いていきたいと思います。

 

 

 いよいよ2021年から中学校が新しい学習指導要領になります。今回の学習指導要領の大きなポイントは、評価がすべての科目で統一されたことにあります。

 その観点とは、「知識・技能」、「思考力・判断力・表現力」、「学びに向かう力・人間性」の3観点となります。

 

 

 その中でも特に注目しなければならないのが、「学びに向かう力・人間性」の項目。自分の勝手なイメージだと、それまでの「関心・意欲・態度」と異なる点は、今改訂で謳っている「実社会に役立つ力」「学ぶ意味・意義」というところにまで切り込んで評価をする、ということになるかと思います。

 

 

 ただし、そこまでいち教師が、いち教科の立場でどれだけ評価ができるのか、それは大いに疑問がある。

 いやいや、そこはカリキュラムマネジメントなんだから、学校全体でやるべきでしょ。

 でも、それって誰が音頭をとるの?

 そのために会議やるの?業務1つ増えてない?

 そんなことをついつい思ってしまう。

 

 

 そこでポイントになるのが「主体性」の問題だと思う。これについては、溝上慎一氏の分析((理論)主体的な学習とは-そもそも論から「主体的・対話的で深い学び」まで- (smizok.net))が一番分かりやすいので、これを分析枠に考えてみたいと思う。

 溝上氏は、主体的な学習を、「行為者(主体)が課題(客体)にすすんで働きかけて取り組まれる学習」と定義づけた上で、その学びは次の3つから構成されると言っている。

 

 ① 課題依存型

 ② 自己調整型

 ③ 人生型

 

 課題依存型とは、「「この課題に取り組むのはおもしろい」といった例に見られるように、行為者の課題への働きかけの力点が、行為者よりも課題のほうにあるような学習」を指す。いわゆる教材研究に基づき、生徒に「問い」を投げかけ、ともに探求(探究)しながら考えていくなど、一般的な教科の授業はここにあたる。ただし、この課題依存型は、課題を教師側が提示しているという点で、受動的であるという課題がある。

 自己調整型とは、「学習目標や学習方略、メタ認知を用いて、自身(自己)を方向づけたり調整したりして課題に取り組む学習」を指す。これまで学習したことを「活用する」という類は、ここに含まれるかと思う。また、「大学受験」や「試験勉強」、「まとめ課題」などはこうした学習を行うための手段となり得るかと思う。

 人生型とは、「中長期的な目標達成やアイデンティティ形成、ウェルビーイング(幸福感)を目指して課題に取り組む学習」を指している。「なぜ学ぶのか、学習を通してどのような自分になりたいのか、といった学習の意味が、自身(自己)の過去や未来の事象に関連づけて作り出され(時間的展望)、それが今ここ(here and now)の時間空間的な意味ともなって学習に反映される」という。何のためにこの教科を学ぶのか、という発想はここからきているだろう。

 

 

 溝上氏の視点を用いれば、新学習指導要領の「主体的な学び」(学びに向かう力・人間性)は、この①~③のすべての領域を含んだもの、もっと言えば、③を軸にして、①・②を行うべき、という指導要領だ、ととらえることができるだろう。

 

 

 

 なるほど、この改革は間違ってはいないと思う。特に子どもたちには「何のためにこの学習をするのか」という視点を提示することは絶対に重要だと思う。現に自分も、最近は「なぜ、日本史を学ぶのか。学ぶとすれば、どんな授業がよいのか」について意識しながら授業をしている。

 

 

 しかし、ここで気を付けなければならないことがある。それは、③を意識されすぎることで、①が軽視されてしまわないか、ということである。

 近年のアクティブラーニングや、主体的・対話的で深い学びによく見られるのが、既存の学習事象を前提として、生徒に「いかに話し合いをさせるか」、「話し合いの技法」、「話し合いの中で他者を認め合う力」を育成されるという授業である。

 それ自体、大いに結構なことであるし、生徒の将来を考えれば、先の見えない時代に他者と共同しながら何かを創り上げる活動は非常に重要である。

 しかし、それなら別に歴史でやる必要はない。むしろ歴史でやる必要がどこにあるのだろうか。古代社会や中世社会は、現代社会との類似性よりも相違性の方が強調される。相違性を学ぶよりは、もっと公民系の科目を学習して、生きて働く社会の仕組みを理解させた方がよっぽどマシである。

さらに、本当に主体性を認めるなら、それに参加しないという「主体性」も保障すべきであろう。結局、教科枠を設定している以上、完全なる「主体性」は担保できない。

 

 

 じゃあ、どうしたらよいのか。かつて自分自身の修士論文のテーマがこれだった。自分の修士論文(2009年執筆)の主発問(MQ)は、「子どもが歴史を科学的かつ主体的に解釈できるようになるにはどうしたらよいか」という壮大なテーマに取り組んでいた。

 

 

 その時に、自分が解決方法として提案していたのが、「社会科学の分析視点に基づく探求学習を繰り返し実施していくことで、社会の見方・考え方を獲得させていくこと」だった。そのために、先行研究として児玉康弘氏、加藤公明氏の授業を分析し、森分孝治氏の「知識の構造図」と、「なぜ(Why)」に基づく問いが重要であると指摘。その上で、附属中で検証実践を行った…そんな内容だった。*1

 

 

 つまるところ、教科枠が残っている以上は、①をベースにして「主体性」を考えるべきだ、というのが自分の主張である。

 

 

 だから昨年度、自分は敢えて「エセ探求主義」*2の授業を公開した。導入から「主発問」(MQ)を投げかけ、生徒にあれこれ考えさせ、生徒とやり取りをしながら、答え(MA)にたどりついていく。授業終了後、自分が地理の授業で面白い先生だなあ、と思っていた先生からはお褒めの言葉をいただいた。結局、社会科教師のウデはそこにあるべきだと思っている。

 

 

 とはいえ、②や③を軽視しているわけではない。むしろ②や③が大切なのは重々承知している。ただ、②や③は、副次的であるべきだし、そこは子どもに「開かれる」べきであると自分は考えている。社会科という科目を通して、「問い」や「課題」を投げかけ、それを繰り返し実践することによって、自分でできるように支援していく。そして、自己の進路実現に必要であると考えれば利用すればよいし、利用しないのであれば(言葉は悪いが)「付き合って」くれればよい、自分はそう考えている。そして、教える側は特に学校の文脈と、生徒のニーズに合わせて、③を意識しながら、①・②をどうするか、を設定する。これこそが、社会科におけるカリキュラムマネジメントであると思う。

*3

 

 

 だからこそ、今回の改訂を通して、かつて多くの教師が行っていた、「ネタ的」授業や、その授業のシェアが少しでも広まっていくといいな、と考えている。①発信の授業が土台にあるからこそ、②や③へと発展していく。そこを忘れてはならないと思う。

 

*1:ちなみに、これ以外に、イギリスのナショナルカリキュラムと、アメリカのフェントンのカリキュラムも分析したが、それは指導教官から削除を求められたので、削除した

*2:基本的には森分孝治氏の探求主義に基づいているものの、森分氏は、既存の認識(素朴概念)へ疑問を投げかけ、新たな視点を「問い」かけて提示することによって、その認識をより科学的に変化させていくことに特徴がある。ただし、自分はそこまでは求めていない。教科書にある知識・認識を「答え」として、生徒の素朴概念を意識しながら、「なぜ」と言いながら、「答え」へたどり着いていく。それは森分氏のものと似て非なるものなので、自分が勝手にこう呼んでいる。エセ探求主義の問題点は、渡部・井手口(2020)を参照

*3: 今回の改訂は、特に社会科については「知識の網羅的な伝達」「受験指導のため」といって、③の部分に無自覚的であることへのある意味での批判でもあると思う

書評 延近充『入試問題の作り方』

 

 

*[書評] 延近充『入試問題の作り方』

 

入試問題の作り方 思考力・判断力・表現力を評価するために

入試問題の作り方 思考力・判断力・表現力を評価するために

  • 作者:延近 充
  • 発売日: 2020/12/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 本書では、慶應大学経済学部の入試問題の制作に長らく携わってきた著者が、自らの入試作成の経験に基づいて、大学入試共通テストの世界史と日本史の問題を分析、批判し、これから始まる指導要領で掲げられている学力観、とりわけ「思考力・判断力・表現力」を評価するための入試問題とはどのようなものか、について述べられている。

 

 著者の問題意識としては、

 

 歴史科目の学習とは「細かい史実の暗記」であるという意識を変え、現代社会が抱える諸問題の原因や原点がどこにあり、問題の解決のためにどのような方向性を展望すべきなのか、といったことを考えるために歴史を学ぶ意味があるという意識に変わるとすれば、この改革は重要な意味をもつであろう。

 

 

 しかし、大学入試共通テストが、そうした問題になりきれていないことを指摘している。自分なりに本書をまとめると、その問題点は、以下のように要約される。

 

 ① 問題文章が膨大である

 ② アクティブラーニングの場面設定テーマが不適切

 ③ アクティブラーニングの場面設定がなされているものの、実質的には暗記を問う問題が多い

 ④ 問いの中で生徒が立てている仮説が不適切なものが多い

 ⑤ 思考力のある受験生ほど戸惑う問題が多い

 ⑥ 歴史知識のある受験生が×になり、表面的な国語力のある人が正解になっている問題がある

 ⑦ ○○主義を問う問題も散見され、結局無意味な暗記を強要している問題も多い

 

 

 結果的に、暗記を問う問題が増えており、従来型へ逆戻りしていることが指摘されている。

 

 本書は、単なる批判だけでなく、著者が実際に問題作成にあたるためのノウハウも第1章で述べられたうえで批判されており、特に歴史系の先生で、思考力型の問題を作ろうと考えている先生にはヒントを与えている部分も多い。

 特に、慶應の問題では、問題作成にあたって、記号問題は誤文を選ばせる問題に統一しており、誤文の作り方も示されている。この辺りは非常に参考になる。

 

 

 自分自身、来年の共通テストで満点をとれる自信はあまりない。それは、これまでのセンター試験とは異なり、日本史以外の要素で解答を導き出そうとしている問題が散見されるからだ。具体的には、史料に見られる古文のような「語彙」を問う問題、単純な国語的な読解の問題などである。

 また、無理に図表を入れ、図表からそのまま読み取らせようとする問題もある。こうした問題が、共通テストでどのように出題されるか。その辺りを分析していきたいと思う。

 

 

 とはいえ、2018の試行調査から分かることは、「思考力」を謳いながら、結果的には「知識」を問うているか、別な分野(特に古典や現代文)の能力を問うている問題に二分されてしまっている感じがする。であるならば、センター試験の方が良問ぞろいだと感じる。

 ゆえに、生徒には、とにかくセンター試験の過去問をやりなさい、ということと、問題文から根拠(ヒント)を探すことを徹底させている。