青い森のねぷたいブログ

青い森です。東京の某所で教職についています。教職に関することを主につぶやいていきます。

 学ぶことを意味づけた歴史学習とは?

 

 本書は、平成29年度版の中学校学習指導要領をベースとした上で、「歴史のを学ぶ意味を追求することのできる歴史学習とはどのようなものか」を具体的な単元で示したものである。

 歴史学習×市民性育成という課題や、歴史×学ぶ意味、という課題に応えることは、来年度より始まる高等学校の地歴・公民の指導要領が大きく変更されたことからも、重要なことである。

 そのために、社会科教育学では、英米など外国のカリキュラムに学びながら、どのような歴史学習が適切か、について議論を深めている。もっともその中には、社会科教育という観点から、「歴史科」そのものを社会科の中に内包し、「市民性育成としての歴史」と位置付けるカリキュラムも多く存在する。

 ただし、そうしたカリキュラムの場合、日本の学習指導要領との対応は極めて難しい。それは、日本の学習指導要領が通史学習を前提とし、テーマ史型の歴史や、プロジェクト・メソッドの一領域としての歴史学習を忌避する傾向にあるからだと考える。

 

 

 そうなった時、現行の学習指導要領との折り合いをつけつつ、市民性育成を意識するにはどうしたらよいか。そこで、今回取り入れられた手法がアメリカのC3フレームワークの理念を継承した、IDM(Inquiry Design Model)である。

 このIDMでは、単元デザインを組むにあたって大きく2つの原則を掲げている。それが、「①関わりある(relevant)」探究(レリバント)、もう一つが「②厳格な(rigorous)」探究(リゴラス)である。

 レリバントは、まさに「有意味性」に関わる部分であり、「そのコンテンツをなぜ行うのか」というところに関わってくる。この本では、「子どもの課題に応える」「社会的な課題に応える」「文化的・経済的に排除、抑圧された立場の要求を受け止める」の3つ「社会科らしさ」の条件を満たすこと、と定義づけられている。

 そして、リゴラスについては、「学問的な厳格さ」と定義づけられている。この歴史の本でいえば、それが歴史学や歴史的思考にあたる。すなわち、「歴史的意義」「影響」「空間的な相互作用」「変化」「原因と結果」「記憶」「歴史的責任」などである。

 

 こうして、社会科らしい単元を立ち上げる際、この本では、

 「①コンテンツ(内容)×②レリバント(主題)×③リゴラス(視点)」

 の観点が要求されることが指摘されている。

 

 

 また、単元を構成するにあたっては、

(1) 「Compelling Question」(=やむにやまれぬ問い=学習者が探究せざるを得ない問い)と「総括的Performance task」(探究した成果を表現する活動)を大枠として決めること

(2) 「Supporting question」(補助の問い)、「Performance task」(探究的活動)、「資料」を用意する

(3) 学習指導要領の位置づけと、探究に向けた環境づくりを行うこと

 

の3段階で、構成していくことが重要であると述べられている。

 

 これを置き換えるなら、(1)が「単元を貫く問い」と「単元のパフォーマンス課題」、(2)が「本時での問い」と「本時のパフォーマンス」、(3)が学校の文脈や教室の雰囲気づくり、と言い換えられるのではないだろうか。

 

 ただし、単元構成にあたっては、先に挙げた「有意味性」と「学問の厳格さ」の2点が求められる点が重要である。そのため、「科学重視か主体性重視か」という二元論を克服できる可能性を持っている。

 

 実際の授業も、例えば「教科書の太字を相対化する」などの歴史の相対化を図っているものや、多様な視点で歴史を眺めさせる実践などもあり、追試可能なものが多いのが特徴である。ぜひその視点を意識して自分オリジナルの教材を作成してみると、生徒は面白く調べたり、発表したりするのではないか、と感じる。

 

 

 と、ここまで書いたうえで、いくつか思うことをつらつらと書いていく。

 

 一点目は、歴史教育と社会参画は非常に相性が悪い。個人的には、もし社会参画の授業をさせたいのであれば、いちいちそれを直接体験できない「歴史」でやる必要はない。

 それは、有意味性という観点でも同様である。歴史は直接体験できないのだから、そこに有意味性を持っていくことは極めて難しい。もし、現在歴史的に論争になっている問題を学校で取り扱えるのならば、それに越したことはないが、生徒がどんな文脈を持っているのか分からない中で、その授業をわざわざ実践することのリスクは極めて大きい。(特に公立校の場合は、「政治的中立性」という言葉がついてまわる)

 そうなってくると、せいぜい「教科書を執筆してみよう」とか、「後輩に教えてみよう」とか、そんなのになるのがオチである。個人的には、それだったらまだお互いに教科書を分割して調べ、互いに発表させた方がよっぽど「知性的」だと思うし、そっちの方が「有意味性」は高いと考えている。

 

 しかし、歴史教育と社会参画、歴史教育に有意味性を持たせる、という条件下で授業をするとするのであれば、この本にある物が妥協点なのかな、と感じる。

 

 

 また、自分の感覚では歴史は「間主観的に社会を眺める」ことができるのが強みであると思っている。それは、現代社会に似たものもあるかもしれないし、違うものもあるかもしれない。もし似たものがあるのであれば、それを取り上げて、この時代もそうだったんだ、と感じることができるだろう。例えば、インフレーションやデフレーションという経済概念で、奈良時代の蓄銭叙位令や、江戸時代の貨幣改鋳、明治時代の松方財政を説明するなどといった感じである。

 また一方で、蓄銭叙位令がうまくいかない理由は、当時の人々に経済学の視点がないからである。普通流通させたければ、蓄銭ではなく、もっと使えと指示を出さなければならない。また、江戸時代の貨幣改鋳も、「ないものはごまかしてでも作ればいいじゃん」という発想があったのではないか、と思う。

 こうやって考えさせる(それは、先生側が話題提供や雑談の一環で話す)だけでも、全然違うのではないだろうか。

 

 

 なので、個人的には社会に向けた知的な行動の一助となる考え方やコンテンツを提供することが歴史であってよいと、個人的には考える。もちろん、市民性教育や公民教育としての歴史を考えた時には、批判はあるかもしれないが。

 

 

 

 

 二点目は、社会科教育がゲートキーピングを強調するのは、教師の側があまりに学習指導要領に無批判で相対化が図られていないことへの危機感、と当時に、学習指導要領をよく見ずに、自分が今まで学んできた「感覚」で教えている教員もいるから、である。

 特に今回の学習指導要領は、コンピテンシーベースに大きく舵が切られている。それに気づいて学習指導要領を丁寧に読み込み、それに合わせて自らの実践を変えているひとは、すでにゲートキーピングができているのである。

 しかし、そのゲートキーピングできていることが「当たり前」ではない、ということは付言しておきたい。だからこそ、歴史総合をどうするか、といった議論の中で、世界史+日本史、という発想が出てくることにもつながっている。

 学習指導要領という目標をふまえれば、歴史総合は世界史+日本史でないことは明らかであるし、原田智仁先生に言わせれば、通史学習ではなくテーマ史学習であるとも言っている。

 それは中学校の指導要領も一緒で、単元を貫く問いや学習の見通し、さらにはテスト以外の評価などが模索されている。

 

 

 三点目は、歴史をかじってきた人間からすれば、パフォーマンスの設定や問いに多少無理があるところも多いと感じることである。

 例えば、「古代国家の歩みと東アジア世界」における発展的PT「新型コロナウイルスを抑えるのに、大仏や国分寺を作ろう!あなたは賛成?反対?」という問いだが、これに賛成する人は果たしているのだろうか。むしろこれは、多くの生徒が反対することを前提として授業を展開し、「医療技術が整っておらず、食料も満足に得られない時代に、病気にかかったらどのようにして治すか」を想像させた方が、よっぽど歴史的だし、さらに一歩踏み込めば、例えば「そうはいっても現代においてもアマビエなどが作られたのはどういうことを意味しているのか」を考えさせた方が、生徒にとって宗教とは何か、を実感させられるのではないだろうか。

 

 

 また、「武士政権の成立」におけるCQ「中世最強の人物はだれだろう?」についても、中世とはそもそも権力が乱立している状態であるため、最強の人物は「いない」と答えさせるのが「リゴラス」(学問的厳格さ)だと思う。もちろん、本書では中世は権力が乱立している状態であることはとらえられているが、それを「源頼朝」や「足利義満」などを選ばせて考えさせるのは、日本中世の重要な部分を見落としてしまうのではないかと考える。頼朝や義満、北条時宗の時は、たまたま権力がその人物に集中している(ように見える)だけである。頼朝の支配範囲は東国に限定されていたし、時宗の時はそれが全国に拡大したのだが、その範囲の広さに耐えきれずに瓦解。義満の頃は確かに権力集中が見られたが、それはあくまでも彼のパーソナリティのなせる業かな、と思う。

 むしろこの問いを逆手にとるのであれば、それとなくカオスな時代を演出させて、「いない」と答えさせたり、生徒から「え、最強の人物いなくね?」と引き出せたりするのが理想かな、と思う。(ただ、これは極めて難しいので、シンプルに「中世とはどんな時代か」を問い、その中で、「中世において最強の人物はいるのか」という問いをSQでくっつけるのがよいのかな、と思う。まあ、そもそも日本の中世が、今の社会と一番異なる世界観なので、自分みたいな歴史好きからすれば、最高に面白いんだけど、市民性育成という観点ではやる必要ある?という疑問はぬぐえないけど)

 

 

 いろいろ書かせてもらいましたが、この本を読んで、そういう発想を自分が考えることができるきっかけをくれる、そんな本なので良書です。ぜひ歴史を専門にしているんだけど、生徒に学ぶ意味を感じてもらえるような授業にしたい。知識一辺倒に教える授業を脱却したい。単元で考えるとはどういうことなんだろう。そういう先生にお勧めだと思います。

 

市民性×歴史教育のセミナーに参加しました。

 31日(土)、I-HEAPに参加されている先生方を主催とした、「市民性教育としての歴史授業をどのように評価するか」のセミナーに参加しました。こうした研究が自宅で見られるのは、とてもいいことだな、と感じています。

 特に登壇者の多くが、自分が所属していたゼミの後輩で、現在、若手研究者として社会科歴史教育の分野で活躍されている方たちばかりだったので、とても楽しみでした。

 特に、これから増えてくるであろう、生徒のレポート評価の際の基準がいくつか示されていて、とても勉強になりました。特に、「ただの歴史事実の並べ替え(Lv.1)→歴史事実をストーリーで説明できている(ある程度の関連性が見られる)(Lv.2)→その事象について、政治的、経済的など様々な視点で記述できている(Lv.3)→多形質的(歴史学的)視点で説明できている(Lv.4)」という4段階の評価基準が分かりやすかったです。

 実際の発表では、4人の先生とも、学校現場の文脈に合わせて、自分の歴史教育において研究してきたことを、かなり現場に反映させながら授業しているのが印象的でした。個人的には、1つの出来事がアッシリア帝国とユダ帝国で違う、というのは面白かったですね。また、「日本は単一民族国家か?」という問いをアイヌの歴史からアプローチするのも、現実の授業で追試可能だなと感じました。

 

 

 個人的には、これだけ海外の歴史教育の事例を見てきている先生方が、日本の学校文脈の中で、評価を軸にしつつ、どのような「課題」を生徒に記述させているのか、が気になりましたね。結局、「何を」評価させるか、が重要になってくるので、その課題をどのような問題意識で設定するのか、ここがこれからの歴史教育では重要になってくるのかな、と思っています。

 

 

 

 折しも同日に高大連携の歴史教育の学会が開かれていたことが残念で、おそらく多くの歴史の先生はそちらに行っているのかな、と思います。全歴研でも高大連携でも、歴史総合を考える時に出てくるキーワードが、「帝国主義」や「革命」をいかにとらえ、いかに教えるか、かなと。そういう実践が多いなあ、と感じています。

 そうなると、生徒に課す課題は、「帝国主義とは何か」とか、「フランス革命明治維新は何が異なるのか(明治維新は「革命」といえるのか)」になってくるかと思います。

 ただし、こうした概念を問う課題は、一部の生徒にとっては足場かけのない状態で行うには難易度が高いし、あまりにこちらが足場かけをし過ぎると、解釈が固定化してしまう(生徒が答えを探そうとする)んですよね。

 

 

 それでも、歴史を用語としてではなく、文章で表明させる活動はこれから絶対に必要で、そのための評価基準を教師側が生徒に提示しながらブラッシュアップしていくことが求められるんですよね。でも、そんな余裕あるかな、というのが正直本音ではありますけどね。前任校で160人分の400字レポートを見るのは、マジできつかったもんな。

 

 

 市民性のための歴史教育は、生徒に「意義付け」をさせる上ではとても重要だと思うので、こうした研究がもっと歴史の先生に知られるといいな、と感じています。

 勉強になりました。ありがとうございました。

全歴研の分科会を視聴しました。

  7月28日(水)に、全歴研の第5分科会「教科の枠をこえて、どのように歴史を学ぶのか」に参加しました。

 歴史授業にアクティブ・ラーニング的な要素を取り入れた実践の先駆者である皆川雅樹氏が主催した分科会。全歴研も学習指導要領が改訂されることを受け、数年前からこうした分科会を設置するようになっていて、それだけでも十分革新的だなあ、と感じる昨今。今回の分科会では、高等学校の歴史に関わる先生方がとかく敬遠する、アクティブ・ラーニング的な要素を登壇者の先生方が「いつ」「どのように」取り入れた(取り入れている)のか、についての、ちょっとした「ライフヒストリー」的な分科会でした。

 個人的には、ゆるい感じで本当に聞いていて面白い分科会でした。その上で、自分が思うことをダラダラと述べていきたいと思います。(あくまでも素人意見ということでご容赦ください)

 

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6月・7月に買った本

 ここ最近は、あまり本を読めていなかったのでようやく買った、という感じですね。

 

 

  歴史をやっている人なら読んでほしい一冊。コロナ禍後の格差拡大により、社会主義が再評価されているという。そうして社会主義共産主義的な、いわゆる左翼運動が再評価されているなかで気を付けなければならないことが、現在の日本では左翼と右翼に大きなねじれが生じていることである。本来、右翼は保守的で、左翼が革新的である。つまり、左翼側は、新しい体制を生み出すことを期待するため、人民の武装化を支持することにあります。この本では、戦後の日本共産党が、武装化を支持していたことも触れられており、それだけでも意外性をもって受け止められると思います。

 

 なぜ、日本では左翼と右翼がねじれているのか、それを歴史的にアプローチしている一冊になっています。また、この本を読むと、なぜ左翼の人が右傾化することができるのかも理解できるかと思います。(左翼の右傾化は、1990年代だけでなく、1930年代の転向の時代にも見られる傾向ですよね。なので、この左翼と右翼のねじれが理解できると、転向も理解できるかと思います)

 

 

 

  歴史総合の教材作成のために購入。ある教科書に、「アルメニア商人」の動きが載せられていて、「アルメニア商人って何?どんな役割果たしたの?」で検索していたら出会った一冊。

 アルメニア商人の動きが見えてくると、産業革命以前は内陸の商人たちがネットワークを持っていて、そうした商人を受け入れた国が発展していることが見えてきます。これは、中学の歴史教科書には見えてこない部分なので、ぜひとも高校の歴史総合で説明したい内容ですね。

 それ以外にも、遊牧民イスラム商人、ヴァイキングなど、歴史総合の「近代化」にとって重要な、移動のネットワークの実態を平易に理解できる本かと思います。

 

  これも歴史総合に向けて購入。東京大学の世界史は、世界の成り立ち、とりわけ国家の概念を問う論述問題が多い。また、同時代の他地域の政治体制の比較や、その後の影響などを問う問題も多い。そうした視点から、歴史の「構造」や「概念」を理解しようとする本になっている。

 例えば、「イギリスの革命が世界に与えた影響は限定的だったのに対し、アメリカやフランスの革命はなぜ世界に大きな影響を与えたのか」という問いが設定されている。その際に使われるキーワードが、「いいねが集まるキーワードを使っているか否か」、では、そのキーワードとは何だったのか・・・そんな感じで展開しています。

 詳しく知りたい方はぜひご一読ください。

 

  全歴研の第5分科会を視聴した流れで購入(もともと買おうと思っていた)。

 皆川雅樹氏が様々な高校現場で見てきた「生の」授業を紹介している。もともと皆川氏は、歴史の授業にアクティブ・ラーニング的な要素を取り入れた先駆的実践者であり、その考え方に共感した先生たちが、自身が「実際に行った」歴史授業を紹介している。

 こうした「実際に行った」授業からのアプローチは、とても重要で、今回の指導要領が求めているのが、「生徒自身が問いを見いだし、その問いを解決していくプロセスを追体験する」ことにある。それを歴史でやるのはなかなか骨の折れる難しい作業なのだが、それに果敢に挑戦している先生たちの実践を知ることができる。

 歴史授業に困っている先生は、ぜひ読んでほしい一冊である。

5月に買った本③

  ここ数日で2冊の教育に関する本を買った。

  一つは、元麹町中学校校長の工藤勇一先生の本

 

 もう一つは、教師教育やセルフスタディ研究で有名な武田信子先生の本である。

 

 この2冊の本、アプローチは違えど、主張していることは共通しているように感じた。以下、自分の読んだ感想であることをご承知の上で読んでいただきたい。

 

 

 この2冊の本に共通していること、それは現在の社会情勢によって、子どもが「自律」(自分で考えること)がなおざりとなっている。それは、武田先生の言葉を借りれば、教育のマルトリートメント、より具体的に言えば、大人が子どもに対して教育を「しすぎている」ことにあるという。

 

 武田先生の本では、それを社会的背景から説明している。すなわち、社会的格差が進行していく中で、子どもには「成功していてほしい」と塾に行かせ、いわゆる「偏差値の高い」学校に入学させるために投資をしていること、その結果、子どもの自主性や自律性が失われ、「子どもたちをブロイラーのように商品化する」ような現象が起きているという。

 

 

 また、工藤先生の本の中では、脳科学の知見から、子どもが安心できる環境を作ること、失敗を許容できる環境を作ること、子どものメタ認知能力を鍛えること(具体的には、子どもに「反省」させないこと)などが重要であると指摘されている。

 

 

 武田先生はどちらかといえば、外的要因(社会的要因)の立場から現在の子どもがおかれている教育の問題を示しており、工藤先生はどちらかといえば学校内で具体的にできること、の立場から子どもへのアプローチの仕方を示している。

 

 

 しかし、どちらにも、「子どもにも人権があり、自分で意思決定する権利があり、そうした子どもなりの意思決定を大人は見守ることが重要である」という主張は共通しているように感じた。いわゆる「子どもらしさ」をもっと見直そう、という議論である。

 

 

 確かに、今の子どもは変に大人びているし、達観しているし、成績を人一倍気にするし、自分の立ち位置をすごく気にする。でもそれは、子どもというよりは、それを照射する大人側の課題がそのまま子どもに反映されていると考えるべきであると思う。

 

 

 これは2000年代以降、進められてきた教育の資本主義化、自由主義的改革、結果至上主義的改革の効果が色濃く出ているんだろうな、と感じる。

 だからこそ、そこに気づいている二人の先生が、図らずも異なるアプローチで、もっと「子どもの意思決定」を見直していこうよ、と主張しているように感じている。

 

 

 

 とはいえ、子どもを「見守る」ってすごく難しい。こちら側が手を差し伸べた方が楽なことはいっぱいある。それでも今は、「見守る」ということ、子どもに自分の行動を意思決定させるアプローチが重要であると思う。(この方法は、工藤先生の本を読むと具体的に書いてあります)

 

 

 自分も今年から担任になったし、この本の内容を肝に銘じて、子どもたちに意思決定をさせること、それを「見守る」ことを意識していきたいと思っている。幸い、入学式や最初のオリエンテーションで、担任している生徒たちが、自分の「言葉」や「意思」をしっかり持っている人たちだなあ、ということは感じているので、担任としては安心してそれができている。あとは、こちらが間接的にでも、思っていることや考えていることを、文字にして表出しながら、受け止め方は彼らに任せながら、一年間やっていこうと思っている。そして、それを基礎にして三年間過ごしてほしいな、と思っている。

 

 

 

 いずれにしても、2021年現在の教育的課題をふまえ、社会的にできること(武田先生)、学校現場で心がけること(工藤先生)、を書いているので、ぜひとも読んでみてほしいです。

5月に買った本②

 

なぜ歴史を学ぶのか

なぜ歴史を学ぶのか

 

  歴史学の立場から、「歴史」にいかにアプローチできるかを叙述しているもの。歴史は解釈であるからこそ、フェイクニュースの叙述も「歴史」なんだよね。そうした「歴史」に対して、学問の立場から論じたものになっています。

 

  まだ読み途中ですが、現在の公民教育では「政治的中立性」が課題となっていますが、そうした中立性の議論においては、教師の意見を表明することが重要になっている、そんなことを指摘しています。教師が「中立である」「多様な価値観を示す」ことは、現状の肯定でよい、ということを価値観として暗に教えることにもつながるわけで。

 これから公共も始まりますが、教師のポジションをいかに示すかが重要ですね。